第75話 その先の言葉
女中が書斎を出てからも、
主人はしばらく机へ戻れなかった。
閉じた襖を見つめている。
その向こうには、もう女中の気配はない。
廊下を歩く足音も、すでに消えている。
それなのに。
先ほどまでそこにいたことだけが、
妙にはっきりと残っていた。
主人はゆっくりと息を吐く。
自分から距離を置こうとした。
そのために、書斎へ来るなと言った。
それなのに、今度は自分から、
「明日も来ればいい」
と言ってしまった。
主人は額へ手を当てた。
(何をしているんだ、俺は)
分かっている。
このままではいけない。
女中は、自分を慕っている。
それはもう、気のせいではない。
そして自分もまた。
彼女が来ることを、嬉しいと思っている。
それを認めてしまえば。
次に何が起こるのか。
考えたくなかった。
──翌日。
女中は朝から落ち着かなかった。
仕事はいつも通りこなしている。
掃除もした。
洗濯もした。
朝餉の片付けも終えた。
そして、時計を見るように、
何度も廊下へ目を向けてしまう。
昼になれば、書斎へ行っていい。
昨日、そう言われた。
それだけを考えていた。
女中は茶を淹れる。
湯の温度を確かめる。
茶葉の量を整える。
いつもなら何も考えずにできることなのに、
今日は妙に慎重だった。
湯呑みを盆へ置く。
そして、しばらくそれを見つめる。
(今日も……話せる)
そう思っただけで、胸が少し軽くなった。
書斎の前へ来る。
女中は襖へ手を添えた。
昨日とは違う。
今日は、迷わなかった。
「失礼いたします」
「……入れ」
中から声がする。
襖を開ける。
主人は机へ向かっていた。
「お茶をお持ちしました」
「ああ」
女中は盆を置く。
そのまま、いつもの場所へ座った。
主人も何も言わない。
そして二人とも、今日は何かを期待していた。
「……昨日は」
主人が口を開く。
「来てくれて、ありがとう」
女中は目を上げる。
「こちらこそ……」
言葉を止める。
こちらこそ……、何と言えばいいのだろう。
来させてもらって嬉しかった。
話をしてくれて嬉しかった。
そんなことを、主人へ言っていいのか分からない。
「……ありがとうございます」
結局、それだけになった。
主人は小さく頷いた。
それから、二人はいつものように話をした。
しかし、昨日までとは、少し違っていた。
話の内容よりも。
互いがそこにいること、そのものを意識している。
主人が湯呑みへ手を伸ばす。
女中がそれを見る。
女中が笑う。
主人もその表情を見る。
そんな小さなことの一つ一つが、
以前より意味を持ってしまう。
「ん?……どうした?」
主人が尋ねた。
「はい?」
「さっきから、よく俺を見る」
女中の顔が赤くなる。
「……申し訳ございません」
「また謝る」
「……はい」
主人は笑った。
女中も、つられて笑う。
その瞬間。
主人の表情が少しだけ曇った。
楽しい。
確かに楽しい。
だからこそ、怖かった。
「ちょっと、いいか」
「はい」
「一つ、聞いていいか」
「はい」
「お前は……」
主人はそこで言葉を止めた。
「何でしょうか」
「……いや」
「はい」
聞けなかった。
「お前は俺をどう思っている?」
そんなことを聞いてしまえば。
答えを聞くことになる。
そして、その答えを知った後では、
今まで通りには戻れない。
「何でもない」
「そうですか」
女中は微笑んだ。
けれど、その笑顔の奥にも、
同じ問いがあるように見えた。
やがて、女中が立ち上がる。
「では、私は戻ります」
「ああ」
襖へ向かう。
その背中を見ながら、主人は思った。
もう少し、あと少しだけ、
この時間が続けばいい。
その願いが、
自分の中にあることを認めたくなかった。
「……おい」
呼び止める。
「はい?」
「明日も……」
そこ主人は言葉を止めた。
女中が振り返る。
「……何でしょうか」
「いや」
主人は笑った。
「何でもない」
女中は少し不思議そうな顔をした。
「……はい」
襖が閉じる。
主人は目を伏せた。
自分から呼び止めた。
そして、自分から言葉を飲み込んだ。
(これでいい)
そう思う。
だが、その直後。
(……本当にそうか?)
胸の奥から、別の声が返ってきた。
その頃、女中は廊下を歩いていた。
主人に呼び止められたことが、少し気になっている。
何を言おうとしたのだろう。
聞けばよかった。
けれどそれ以上に、
(明日も会える)
そう思えることが嬉しかった。
女中は自分でも気づかないうちに、
胸元へ手を当てていた。
そこには、あの白磁の欠片がある。
指先で、その輪郭を確かめる。
(私は……)
もう、分かっているのかもしれない。
旦那様と話したい。
顔を見たい。
声を聞きたい。
そして、自分だけを見てほしい。
そこまで考えて、女中は足を止めた。
「……」
胸の奥が、大きく鳴った気がした。
(私は……旦那様を)
その先を、まだ口にはできない。
しかし、もう「分からない」とは思わなかった。
──夕方。
妻は、女中が洗濯物を畳んでいる姿を見ていた。
「ねえ」
「はい」
「最近、よく笑うようになったわね」
女中は手を止めた。
「……そうでしょうか」
「ええ」
妻は微笑んだ。
「何か、嬉しいことがあるのでしょう」
女中は答えなかった。
けれど、その沈黙だけで、妻には十分だった。
「そう」
妻は、それ以上追及しない。
ただ静かに言った。
「なら、今度は気をつけなさい」
「……はい」
「嬉しい時ほど、人は自分の足元を見なくなるものよ」
女中は、その言葉を胸に刻んだ。
──その夜。
女中は一人、布団の中で白磁の欠片を見つめていた。
壊れた器。
あの日、自分が落としたもの。
そして、あの日から始まった、旦那様との距離。
女中は欠片を握り締めた。
「……私」
小さく呟く。
「悪い女中になってしまったのでしょうか」
返事はない。
それでも、今度は、その言葉を自分で否定した。
「……でも」
目を閉じる。
「消えたくありません」
まだ先のことは分からない。
どうすればいいのかも分からない。
ただ、自分の中に生まれたものだけは、
もう消せなかった。
そしてその気持ちは、少しずつ、
二人だけの秘密へと変わり始めていた。




