第74話 明日も来ればいい
女中は、旦那様から少し離れた場所へ正座した。
書斎には、夜の静けさが満ちている。
机の上には行灯が一つ。
その明かりが、旦那様の横顔と、広げられた帳面を照らしていた。
女中は膝の上で手を揃える。
何か話さなければならない。
そう思ってここに来た。
だが、いざこうして向かい合うと、言葉が出てこなかった。
「……」
主人も急かさない。
ただ女中を見ている。
その視線を感じるだけで、胸が苦しくなる。
「今日は、どうした」
やがて主人が口を開いた。
「……旦那様と、お話がしたくて参りました」
「それは聞いた」
「はい……」
「だが、何を話したい?」
女中は俯いた。
「……分かりません」
主人は小さく息を吐いた。
「また、それか」
「申し訳ございません」
「だから謝るな」
「……はい」
女中は少しだけ顔を上げた。
主人の表情は、以前より硬かった。
自分を遠ざけようとしていた時と同じ顔。
でも、完全に冷たくなったわけではない。
それが、女中には分かった。
「……旦那様」
「何だ」
「私を避けておられましたか」
主人の手が止まった。
しばらく返事がなかった。
女中は胸が締め付けられるのを感じた。
聞かなければよかった、そう思った。
けれど、もう口にしてしまった。
「お前には……そう見えたか」
「はい」
主人は視線を落とした。
「ああ、そうだな」
短い返事だった。
女中の胸が痛む。
「……なぜでしょうか」
主人はすぐには答えなかった。
行灯の火が、かすかに揺れる。
その光が、二人の間に長い影を作っていた。
「お前のためだ」
「私の……?」
「ああ」
女中は首を傾げる。
「どうして、私のためなのでしょう」
「もう、それ以上聞くな」
少し強い声だった。
女中は黙る。
そして今度は、引かなかった。
「……私は、知りたいです」
主人が顔を上げる。
「何を?」
「なぜ、私と話さないようになったのか」
女中の声は震えていた。
それでも、言葉を続ける。
「私が何か、旦那様のお気に障ることをしたのでしょうか」
「違う」
主人は即座に答えた。
「では……」
「いや、お前は何も悪くない」
その言葉に、女中の目が潤んだ。
「なら、どうして……」
主人は目を閉じた。
そして書斎から音が消えた。
やがて、主人は低い声で言った。
「俺が、自分を信用できなくなったからだ」
女中は息を呑んだ。
「……旦那様が?」
「ああ」
「何を……」
「もうそれ以上は聞くな」
今度の声は、先ほどより弱かった。
拒絶ではない。
むしろ、何かを隠そうとしている声だった。
女中はそのことに気づいた。
「私は……」
女中はゆっくり言った。
「旦那様に嫌われたのだと思っておりました」
「……嫌ってなどいない」
その答えは早かった。
女中は顔を上げた。
「本当ですか?」
「ああ」
「では……」
女中は言葉を止める。
聞いてはいけない。
それでも、どうしても知りたかった。
「……私と話すことが、お嫌だったのでしょうか」
「違う」
「では……」
主人は苦笑した。
「お前は、本当に聞きたがりになったな」
「……申し訳ございません」
「ほら、また謝った」
女中は少しだけ笑った。
主人も笑う。
ほんの一瞬。
以前の二人に戻ったような、穏やかな時間だった。
しかし、その笑顔はすぐに消えた。
「……楽しいんだ」
「え?」
「お前と話していると」
女中の身体が固まった。
主人は続けた。
「だから、距離を取ろうと思った」
女中は何も言えない。
「話すほど、もっと話したくなる」
主人は自嘲するように笑った。
「それが、良くないことだと思ったんだ」
女中は胸元へ手を当てた。
旦那様も自分と同じだった。
そう、自分も、もっと話したいと思った。
もっと一緒にいたいと思った。
その気持ちを、旦那様も感じていた。
その事実だけで、胸がいっぱいになる。
「……私は」
女中は小さく口を開いた。
「離れたくありませんでした」
主人の目が動く。
「……何?」
「旦那様と、お話しできなくなって……」
女中の声が震える。
「とても、寂しかったです」
言ってしまった。
ずっと隠していたこと。
胸の奥へしまっていたこと。
それが、初めて言葉になった。
「だから……」
女中は続けた。
「今日、参りました」
主人は女中を見つめる。
何言葉を発してはいない。
だが、その目には明らかな動揺が浮かんでいた。
しばらくして、主人は静かに立ち上がった。
女中は驚いて顔を上げる。
「旦那様……?」
主人は窓際へ歩いていった。
障子を少し開ける。
冷たい夜風が書斎へ入ってくる。
「外はまだ……寒いな」
「はい」
「冬だから当然だ」
そんな、どうでもいい言葉。
けれど主人は、そうでも言わなければ落ち着かなかった。
女中は、その背中を見つめていた。
やがて主人が振り返る。
「お前は」
「はい」
「俺と話していて、本当に楽しいのか」
「……はい」
今度は迷わなかった。
「とても」
主人は目を伏せた。
「そうか」
「はい」
沈黙が辺りを包み込む。
しかし今度の沈黙は苦しくなかった。
いや、むしろ、
二人とも、言葉にしてしまったことで、少しだけ楽になっていた。
女中は立ち上がった。
「……もう、戻ります」
「ああ」
襖へ向かう。
そして、そこで振り返った。
「旦那様」
「何だ」
「また、来てもよろしいでしょうか」
主人は答えなかった。
また長い沈黙の時間が流れる。
女中は、その沈黙だけで答えを察したような気がした。
「……失礼いたします」
襖へ手を掛ける。
「待て」
主人の声がした。
女中が振り返る。
「まあ……明日も来ればいい」
「……はい」
女中の顔に、自然な笑みが浮かんだ。
「ありがとうございます」
襖が閉じる。
廊下へ出た女中は、胸元へ手を当てた。
鼓動が速い。
けれど今夜は、涙が出なかった。
初めて自分の気持ちを、自分の言葉で伝えられた。
それだけで十分だった。
書斎に残った旦那様は、閉じた襖を見つめていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……明日も来ればいい、か」
自分で言った言葉なのに。
その意味を考えると、胸が重くなる。
距離を置くつもりだった。
それなのに。
自分から、また来いと言ってしまった。
主人は机へ戻る。
帳面を開く。
しかし、文字は頭に入ってこない。
女中の声だけが、何度も耳の奥へ蘇る。
――とても。
その一言が、いつまでも消えなかった。




