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家の内側、女中の気配が変わるころ  作者: てきてき@tekiteki


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第73話 自分で決めた一歩

 それから数日。


主人は、本当に書斎へ女中を呼ばなくなった。

茶は別のものが運ぶようになった。


用事を頼む時も、廊下ですれ違った時も、

以前のように声を掛けることはない。


(避けている)


女中には、それが分かった。


最初は、ただ仕事が忙しいのだと思おうとした。

次の日には、たまたまだと思った。

その次の日には、もう気のせいだとは思えなくなっていた。


女中は朝餉の支度をしながら、

何度も旦那様のいる書斎の方へ目を向けた。


襖は閉まっている。

その向こうに、旦那様がいる。


それだけなのに。

以前なら何とも思わなかった距離が、今はひどく遠く感じられた。



 ──昼過ぎ。


女中は廊下を拭いていた。

そこへ主人が書斎から出てきた。


女中はすぐに気づいた。


雑巾を置く。


「旦那様」


「ああ」


それだけ。


主人はそのまま通り過ぎようとした。

女中は思わず顔を上げる。


「……あの」


主人の足が止まった。


「何だ」


女中は言葉を探した。


「お茶を……」


「今日はいい」


「……そうですか」


「ああ」


主人は再び歩き出す。

女中は、その背中を見つめた。


以前なら、そこで終わっていた。


今は。


「旦那様」


もう一度、呼んでしまった。

主人が振り返る。


「何だ?」


女中の胸が大きく鳴る。


「……いえ」


言えない。


(寂しい……)

(どうして避けるのですか……)

(またお話ししたい……)


そんな言葉は、主人に向かって言えるはずがなかった。


「何でもございません」


主人は女中を見つめる。

何か言いたそうな顔をされていると感じた。

けれど、おっしゃらない。


その表情を見ているうちに、

主人の胸にも鈍い痛みが走った。


「そうか……ご苦労」


「はい」


主人は歩き去った。

女中は、その場へ座り込むように膝をついた。


手の中には、まだ濡れた雑巾がある。

冷たい水が指から滴っていた。


それなのに、胸の奥だけが熱かった。



 ──夕方。


妻は、女中がいつもより静かなことに気づいた。


「どうしたの?」


「いえ……何でもございません」


「そう」


妻は、それ以上聞かなかった。

口元に少し笑みを浮かべながら、いたずらっぽく静かに言う。


「旦那様でしょう?」


女中の手が止まった。


「……」


「何かあったのね」


「……いいえ」


妻は小さく息を吐いた。


「ふふ……嘘が下手になったわね」


女中は俯いた。


「……申し訳ございません」


「もう。だから、謝らなくていいの」


妻は女中の隣へ座った。


「あなた」


「はい」


「今、胸の奥が苦しいでしょう?」


女中は答えられなかった。

代わりに、目から涙が一滴落ちた。


妻は何も言わない。

ただ、その涙を見ていた。


「……どうして」


女中がようやく口を開く。


「どうして、あの方は……」


声が震える。


「私を避けるのでしょう」


妻は静かに答えた。


「あなたを避けたいからではないでしょうね」


「では」


「避けなければならないと思っているのでしょう」


女中は顔を上げた。


「同じことでは……ありませんか?」


「いいえ、違うわ」


妻は、はっきり言った。


「避けたいのなら、もっと簡単よ」


妻の目から力が抜ける。


「何も感じなければいいのだから」


女中は息を止めた。


その言葉の意味を考える。


「でも、あの人はそうできない」


妻は続けた。


「だから距離を取っている」


女中の胸の奥に棘が当たるのを感じた。


それは、希望にも聞こえなくはない。

しかし同時に、もっと苦しい言葉でもあった。


「それは……私のせいですね」


「まあ、そうね」


妻は否定しなかった。


「でも、あなた一人のせいではない」


女中は黙った。


「大人というのはね」


妻はゆっくりと続けた。


「自分の気持ちを抑えることも、責任の一つなのよ」


「……はい」


「でも」


妻は女中の目を見る。


「抑えれば消えるとは……限らないわね」


女中は目を伏せた。

胸の中で、何かがはっきりと形になっていく。



 ──夜。


屋敷は静まり返っていた。

女中は布団へ入った。

けれど、眠れなかった。


目を閉じれば、旦那様の背中が浮かぶ。

声が聞こえる。

笑った顔も。

そして、最後に聞いた、


「今日はいい」


という言葉。


女中は布団の中で身体を丸めた。


「……嫌です」


小さく呟く。

誰に聞かせるわけでもない。


「もう……嫌です」


涙が頬を伝った。

自分から近づいた。

だから、距離を置かれる苦しさも、自分で知ってしまった。


知らなければよかった。

そう思う。

でも、もう知らなかった頃には戻れない。


女中は起き上がった。

月明かりが障子を白く照らしている。


懐へ手を入れる。

白磁の欠片を取り出す。


掌へ載せる。

冷たい。


その冷たさに触れながら、女中は昨夜までのことを思い出した。


旦那様は自分を守ってくれた。

優しくしてくれた。

話をしてくれた。

そして今は、自分から離れようとしている。


それが、自分のためなのだということも分かっている。

だからこそ。

自分から何かを決めなければならない。


奥様もそう言った。

「自分で答えなさい」、と。


女中は白磁を握った。


「……私は」


声が震える。


「私は、どうしたいのでしょう」


しばらく言葉を失っていた。

やがて……。


「……お話がしたい」


小さく呟く。


「もう一度……」


そこで言葉が止まる。

けれど、もう一つの言葉も、胸の中には浮かんでいた。


会いたい。

ただ会いたい。


それだけだった。



 ──翌日の夜。


女中は夕餉の片付けを終えた。

いつもなら、そのまま女中部屋へ戻る。


しかし、足がは別の方向へ向かっていた。


書斎。

その前で立ち止まる。


中から、かすかな紙の音が聞こえる。

旦那様はいる。

女中は襖の前に正座した。


手を上げる。

けれど、叩けない。

何を言えばいい。


仕事の用事ではない。

茶を持っているわけでもない。


ただ……。

話したい。


それだけだ。


女中は一度、手を下ろした。


帰ろうとした。

その時。


「……誰だ?」


中から声がした。

女中の身体が固まる。


「……私でございます」


しばらく返事がない。

やがて。


「……入れ」


低い声だった。


女中は襖を開けた。

主人が机の前に座っている。


そして、二人の目が合う。


たった数日。

それだけなのに。

ずいぶん長い時間が過ぎたように感じられた。


「……何か用か」


女中は答えられない。


「お茶か?」


「……いいえ」


「仕事か?」


「……いいえ」


主人は眉を寄せた。


「では、何だ」


女中は胸元へ手を当てた。

心臓が激しく鳴っている。

それでも、今度は逃げなかった。


「……お話がしたくて」


主人は黙った。


「……そうか」


その声には、困惑が混じっていた。

女中は一歩だけ、部屋の中へ入った。


「……いけませんか?」


主人は目を伏せた。


「いけない、とは言っていない」


「では……」


女中はそこで止まった。


もう一歩進むことはできた。

けれど、しなかった。


自分で決める。

自分の気持ちだからこそ、相手へ押しつけてはいけない。

そのことを、少しだけ理解し始めていた。


主人はそんな女中を見つめていた。


そして、ほんのわずかに、表情を和らげた。


「わかった……座れ」


「はい」


女中は、少し離れた場所へ正座した。

以前と同じ距離。


けれど、以前とは違う。

今度は、女中自身が選んでここへ来た。


そのことだけは、誰にも決めてもらったものではなかった。

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