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家の内側、女中の気配が変わるころ  作者: てきてき@tekiteki


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第72話 離れたくありません

 ──翌朝。


女中は目を覚ますと、しばらく天井を見つめていた。

昨夜、自分の口から出た言葉が、まだ耳の奥に残っている。


 ――旦那様とお話しするのが、楽しい。


ただ、それだけのことだった。


それなのに。

その一言を自分で認めたことで、何かが変わってしまった気がする。


女中は布団から起き上がった。

いつもの朝。

いつもの仕事。

そう思って身体を動かす。


けれど、胸の奥には昨夜までなかったものがある。


期待だった。

今日も書斎へ行けるだろうか。

今日も少し話せるだろうか。

そう考えてしまう自分に気づき、女中は小さく息を吐いた。


(いけない)


そう思う。


(……でも)


その「でも」を、今度は打ち消さなかった。



 朝餉が終わる。


食器を片付け、台所を整える。

その途中で、女中は奥様から声を掛けられた。


「今日は書斎へ行くの?」


「……はい」


「何か用事があるの?」


「お茶を……」


そこで女中は言葉を止めた。

妻が静かに見る。


「お茶を?」


「……お持ちいたします」


「そう」


妻は、それ以上追及しなかった。

ただ、ほんの少しだけ微笑んだ。


「行ってらっしゃい」


「……はい」


女中は頭を下げた。

その声には、以前にはなかった軽さがあった。



 ──昼。


女中は盆を持って書斎へ向かった。

襖の前に立つ。


昨日までは、ここで少しだけ緊張していた。


今日は違う。

会える。

そのことが嬉しい。


「失礼いたします」


「入れ」


いつもの声。

女中は襖を開けた。

主人は机へ向かっている。


女中は盆を置いた。


「お茶でございます」


「ああ」


主人は顔を上げる。

その瞬間。


二人の目が合った。

女中は微笑んだ。


「……今日は良い天気ですね」


「ああ」


主人は窓の外を見る。


「冬にしては暖かいな」


「はい」


「庭の山茶花も、まだ咲いている」


「私も、朝に見ました」


それだけの会話だった。

けれど、女中は嬉しかった。


自分から話しかけた。

そして旦那様も答えてくれた。

その事実が、胸の中に小さな灯りをともす。


「……では」


女中は盆を持ち上げた。


(今日は帰ろう)


そう思った。

しかし……。


「待て」


主人が言った。


「……はい」


「昨日の話の続きは?」


女中は目を丸くした。


「覚えていらしたのですか」


「俺から聞いた話だぞ」


少し笑う。


「忘れるわけがない」


女中も笑った。


「では……少しだけ」


「ああ」


女中は座った。



その日、二人は長く話した。


子どもの頃の話。

好きだった花。

冬になると食べたくなるもの。


主人が若い頃に失敗した話。

女中が奉公に出たばかりの頃の話。


どれも、大した話ではない。

でも、その一つ一つを知ることで、相手が少しずつ近くなる。


女中はそれを感じていた。

主人もまた、女中の知らなかった表情をいくつも見つけていた。


笑う時に、少しだけ目を細める。

困ると、指先を着物の膝へ揃える。

思い出話をするときだけ、声が少し幼くなる。

そんな些細なことまで、気づくようになっていた。


それが分かった瞬間。

主人は、ふっと黙った。


「……旦那様?」


「いや」


主人は首を振った。


「何でもない」


女中は首を傾げた。


「そうですか」


「ああ」


しかし、主人の胸の中には、はっきりとした不安が生まれていた。



女中が部屋を出ていったあと。

旦那様は一人になった。


静かな書斎。

湯呑みから、まだ少し湯気が立っている。


主人はそれを見つめた。


(あれは……話しすぎた)


そう思う。

何も悪いことはしていない。

奉公人と主人が話をしただけだ。


それなのに。

自分が女中の話を聞くことを、楽しみにしていた。

それが問題だった。


(このままではいかん)


主人は目を閉じる。

距離を置かなければならない。

そう思った。


だが、先ほどの女中の笑顔が浮かぶ。

その笑顔を見られなくなることを想像すると、

胸の奥が妙に重くなる。


「……困ったな」


 小さく呟いた。



 ─その日の夕方。


女中は廊下を歩いていた。

今日はいつもより足取りが軽い。

けれど、その途中で主人とすれ違った。


「……あ」


女中が立ち止まる。


「旦那様」


「ああ」


主人も立ち止まった。


「今日は……」


女中が言いかける。

主人は先に口を開いた。


「しばらく、書斎へ来なくていい」


「……え?」


女中の表情が固まった。


「ちょっと、仕事が忙しくなる」


「……そうですか」


「ああ」


主人は目を合わせなかった。


「茶は、妻に頼む」


「……はい」


女中は頭を下げた。


「承知いたしました」


主人はそのまま通り過ぎる。


それを聞いてから少し、女中はしばらく動けなかった。


背中が遠ざかっていく。

足音が消える。


それから、女中はようやく顔を上げた。


(……どうして)


胸が痛かった。

昨日まで、あんなに楽しかった。

今日も、笑ってくれた。


なのに、急に遠ざけられた。


女中は胸元へ手を当てた。

息が苦しい。

何が起きたのか、分からない。


ただ一つだけ分かった。

自分は、思っていた以上に旦那様を求めていた。



 ──夜。


女中は女中部屋に一人で座っていた。

目の前には、白磁の欠片。

いつものように掌へ載せる。


冷たい。

けれど、今夜はその冷たさが妙に堪えた。


「……旦那様」


小さく名前を呼ぶ。

返事はない。

それでも、呼ばずにはいられなかった。


女中は俯いた。


(私は……何をしたのでしょう)


自分から近づいた。

自分から話したいと言った。


そして、旦那様も、それに応えてくれた。

それなのに……。


今は、自分から離れられない。

女中は白磁を握った。

鋭い縁が掌へ触れる。


少し痛い。

けれど、その痛みで自分を現実へ戻そうとする。


(これでいいのです)


そう思う。

主人と女中。

本来の距離へ戻るだけ。


それだけなのに、涙が一滴、白磁の上へ落ちた。


「……嫌です」


初めて、女中は、自分の本心を声にした。


「……離れたく、ありません」


言ってしまった。

その言葉は、もう、取り消せなかった。



 ──翌朝。


妻は、女中の目元が少し腫れていることに気づいた。


「眠れなかったの?」


「はい……少し」


「そう」


妻は女中の顔を見る。

それから、何も聞かずに茶を差し出した。


「飲みなさい」


「……はい」


女中は両手で湯呑みを受け取る。


温かい。

その温度が、昨夜の冷たさを少しだけ和らげた。


妻は静かに言った。


「自分で分かったでしょう?」


「……何がでしょうか」


「何を失うのが怖いのか」


女中は黙った。

もう否定できない。


「……はい」


妻はそれ以上何も言わなかった。

ただ、女中の肩へそっと手を置いた。


「なら」


静かな声。


「次は、自分で考えなさい」


女中は顔を上げる。


「……はい」


その返事には、以前よりほんの少しだけ強さがあった。

もう、自分の気持ちを知らなかった頃には戻れない。


それは怖い。

けれど。

初めて、自分自身の心を自分で抱えているような気がした。

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