第71話 欲しいもの
──翌日。
女中は、昨日と同じように書斎へ茶を運んだ。
けれど、襖の前まで来たところで、足が止まった。
中から声がする。
「……入れ」
まだ何も言っていないのに。
女中は少し驚いた。
「失礼いたします」
襖を開ける。
主人は机へ向かっていた。
顔を上げる。
「今日も来たか」
「……はい」
その言葉が、なぜか嬉しかった。
昨日だけではない。
今日も来ることを、旦那様も分かっていた。
女中は盆を置く。
「お茶でございます」
「ああ」
湯呑みから湯気が立ち上る。
女中はいつものように、茶の位置を整えた。
それから、すぐには立たなかった。
主人も何も言わない。
以前なら、こんな沈黙が続けば、
女中の方から頭を下げて部屋を出ていた。
今は違う。
二人とも、沈黙をそのままにしている。
それが少しずつ、当たり前になっていた。
「……昨日の話だが」
まず、主人が口を開く。
「はい」
「子どもの頃の話をしただろう」
「はい」
「お前の話も、もう少し聞きたい」
女中は目を上げた。
「私の……?」
「ああ」
胸が小さく鳴った。
自分のことを知りたいと思ってくれている。
それだけのことなのに、胸の奥が熱くなる。
「……何も面白い話はございません」
「それでもいい」
「では……」
女中は少し考えた。
「昔、母と一緒に山へ行ったことがございます」
「山か」
「はい。春になると山菜を採りに行きました」
女中は、ぽつりぽつりと話し始めた。
幼い頃のこと。
春の山の匂い。
土の柔らかさ。
摘んだ花。
母の背中。
どれも古い記憶だった。
話しているうちに、
女中自身も忘れていた光景が少しずつ蘇ってくる。
「……そんなことも、あったのですね」
最後に、女中は小さく笑った。
「自分でも忘れておりました」
「忘れるものだ」
主人は静かに言った。
「人間は、覚えておきたいことより、
覚えておく必要のあることを先に覚えるからな」
女中はその言葉を聞いて、ふと白磁の欠片を思い出した。
忘れてはいけないもの。
懐の奥にある、あの欠片。
女中は胸元へ手を添えそうになり、途中で止めた。
「……そうかもしれません」
主人は女中を見た。
「何か思い出したか?」
「いいえ」
女中は微笑んだ。
「何でもございません」
話はしばらく続いた。
大した内容ではない。
昔のこと。
庭のこと。
季節のこと。
それでも女中には、それが何より楽しかった。
主人が笑う。
自分も笑う。
そんな時間が、少しずつ積み重なっていく。
やがて女中は、ふと気づいた。
自分はもう、主人の前で緊張していない。
もちろん、礼儀は忘れていない。
言葉遣いも変えていない。
けれども、ただの奉公人としてではなく、
一人の人間として話している。
そのことが、怖くもあり、嬉しくもあった。
「……旦那様」
「何だ」
「私、変でしょうか」
「何がだ」
「最近……」
女中は言葉を探した。
「旦那様とお話しするのが、楽しいのです」
主人の表情が止まった。
「……そうか」
「はい」
「それは……」
主人は少し困ったように笑う。
「俺も、楽しいよ」
女中の体が分かりやすく跳ねる。
そして思わず顔を上げ、主人を見上げる。
その瞬間、二人の目が合った。
ほんの数秒。
それだけだった。
しかし、今までとは違う沈黙だった。
主人が先に、何か思い出したように視線を逸らした。
「では……そろそろ仕事に戻れ」
「……はい」
女中は立ち上がった。
けれど、心の中では先ほどの言葉が何度も響いていた。
『俺も、楽しい』。
その一言だけで、一日を幸せに過ごせそうな気がした。
女中が部屋を出る。
襖が閉じる。
主人はしばらく動かなかった。
やがて、深く息を吐く。
(言ってしまった)
何気ない言葉だった。
嘘ではない。
確かに楽しかった。
だが、それを口にする必要があったのか。
自分自身へ問いかける。
答えは出なかった。
むしろ、言葉にしたことで、
自分の中にあるものまで、はっきりしてしまったように思えた。
その日の夕方。
女中は庭で洗濯物を取り込んでいた。
そこへ妻が来る。
「今日は随分と機嫌がいいわね」
女中は振り返る。
「あ、……そうでしょうか」
「ええ」
妻は笑う。
「何か良いことでもあった?」
女中は迷った。
あのことを言っていいものか。
けれど、隠す理由も思いつかなかった。
「……旦那様と、お話をいたしました」
「そう」
妻は驚かなかった。
「何を話したの?」
「昔のことを」
「そう」
妻は洗濯物を一枚取った。
「楽しかった?」
「……はい」
女中は素直に答えた。
妻は、その顔を見た。
そして、少しだけ目を細める。
「へえ……そうなの」
それだけだった。
だが、しばらくして、女中を正面に見て。
「一つだけ覚えておきなさい」
「はい」
「楽しいという気持ちは、悪いものではないわ」
女中は頷く。
「でもね」
妻は洗濯物をゆっくりと畳みながら続けた。
「楽しいからこそ、もっと欲しくなる」
その言葉に、女中の手が止まる。
「そう……、もっと話したい」
妻がさらに続ける。
「もっと見ていたい」
女中は何も言わないが、少し目が泳ぐ。
「もっと近くにいたい」
その言葉に、女中の頬が熱くなる。
妻はそれを見逃さなかった。
「……心当たりがある顔ね」
「あの……申し訳ございません」
「だから、謝らなくていいと言っているでしょう」
女中は俯く。
「ただ、自分で分かっておきなさい」
「何をでしょうか」
「今、自分が何を欲しがっているのか」
静かな声だった。
女中は答えられない。
そしてもう、
「分かりません」だけでは済ませられない気がした。
──夜。
女中は一人になってから、懐の白磁を取り出した。
月明かりが欠片を照らす。
藍色の松。
小さく欠けた白い器。
女中はそれを掌に載せた。
(私は、何を欲しがっているのでしょう)
答えは、まだ言葉にならない。
ただ、旦那様と話す時間がなくなることを考えると、
胸が苦しくなる。
旦那様が他の誰かと楽しそうに話しているところを想像すると、
なぜか嫌だった。
そして……。
自分へ向けられた笑顔を思い出すと、胸が温かくなる。
「……これが」
女中は小さく呟いた。
「私の気持ち……?」
初めて、その言葉を口にした。
少し、怖かった。
でも、それを否定する気にもなれなかった。
白磁の欠片を握る。
鋭い縁が掌に触れる。
女中はその痛みを感じながら、目を閉じた。
忘れてはいけない。
そう思って持っていた欠片。
けれど今は、それだけではない。
この欠片を見るたびに、旦那様の腕を思い出す。
守られたこと。
優しくされたこと。
そして、自分が、その人を求め始めていること。
女中は、ゆっくりと欠片を懐へ戻した。
その夜、
初めて、自分の気持ちから目を逸らさなかった。




