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家の内側、女中の気配が変わるころ  作者: てきてき@tekiteki


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第70話 明日も話したい

翌日も、女中は書斎へ茶を運んだ。

昨日と同じ時間だった。


けれど、昨日とは少しだけ違っていた。

襖の前まで来ると、女中は一度立ち止まる。


中から紙をめくる音が聞こえる。


(旦那様がいる)


女中は小さく息を吸った。


「……失礼いたします」


「入れ」


いつもの声。

女中は襖を開ける。

書斎には、午後の淡い光が差し込んでいた。


主人は机に向かっている。


「お茶をお持ちしました」


「ああ」


女中は盆を置く。

そして、昨日と同じように、すぐには立ち去らなかった。

主人も、それに気づいている。


「……今日は何を話す?」


女中は少し驚いた。


「覚えていらしたのですか」


「その程度を忘れるほど、まだ歳を取ってはいない」


主人が笑う。

女中も、ほんの少し笑った。


「では……」


女中は考える。


「旦那様は、子どもの頃はどんな方だったのですか?」


「俺か?」


「はい」


「急にどうした」


「知りたくなりました」


その言葉に、主人の表情がわずかに変わった。


知りたい。

それは、仕事とは関係のない言葉だった。


「そうだな……」


主人は椅子へ背を預ける。


「悪ガキだったよ」


「本当ですか?」


「ああ。よく親に叱られた」


「想像できません」


「そうか?」


「はい」


女中は笑った。


「旦那様は、いつも落ち着いていらっしゃいますから」


「それは歳を取ったからだ」


「では、昔は違ったのですね」


「ずいぶん違ったな」


主人も笑う。

その笑顔を見ているうちに、

女中の胸が少しずつ温かくなっていった。


こんな話をしている旦那様を見るのは初めてだった。

主人ではない。

もっと普通の一人の人間としての姿。


女中は、それを知ることが嬉しかった。



「お前は?」


 突然、主人が尋ねた。


「はい?」


「子どもの頃だ」


「私ですか」


「ああ」


女中は黙った。

すぐには答えられなかった。


「……あまり、覚えておりません」


「そうか」


主人はそれ以上聞かなかった。

そのことが、女中には少しありがたかった。


聞かれたくないことを無理に聞かない。

そういうところも、この人の優しさなのだと思う。


「でも」


女中は少し考えてから続けた。


「昔、花を摘むのが好きでした」


「花?」


「はい」


「今も好きだろう」


「……はい」


女中は微笑んだ。


「変わっていないのですね」


「そうかもしれんな」


二人の間に、穏やかな沈黙が流れた。

話題がなくなったわけではない。

ただ、話さなくても苦しくない。


それが女中には嬉しかった。



しばらくして。

主人がふと女中の手を見る。


「そういえば」


「はい?」


「もう痛まないか」


女中は自分の手を見る。


「あの時の火傷」


「はい」


「跡は?」


「少しだけ残っています」


「どれ、見せてみろ」


女中は一瞬、躊躇した。

それから手を差し出す。


主人が手首を取る。

ほんの短い接触だった。


それなのに、女中の身体が固くなる。


「……まだ少し赤いな」


「はい」


「無理をするな」


「はい」


主人は手を離した。

女中は、自分の手を胸元へ戻す。

そして、ただそこだけが、

まだ熱を持っているようだった。


主人も、今の自分の行動を意識していた。


ほんの些細なこと。

手を取っただけだ。

それだけなのに。


(……近い)


そう思った。


以前なら、何とも思わなかった。

だが今は違う。

女中の表情。

自分へ向ける視線。

その一つ一つが妙に気になる。


主人は机へ目を戻した。


「今日はもういい」


「……はい」


女中は立ち上がる。

昨日より少しだけ早く。


そして襖の前で振り返った。


「旦那様」


「何だ」


「明日も、お……」


女中は言葉を止め、咳払いをする。


「お茶を、お持ちします」


主人は少し笑った。


「そうしてくれ」


「はい」


襖が閉じる。

主人はしばらく、その襖を見つめていた。



廊下へ出た女中は、胸に手を当てた。


心臓が早い。

たった少し話をしただけなのに。

手を取られただけなのに。

どうしてこんなに嬉しいのだろう。


女中は廊下の端で立ち止まった。

そして、小さく笑った。

その笑顔を誰にも見られないよう、すぐに俯く。


(明日も……)


自分からそう思った。


明日も話したい。

明日も顔を見たい。

その願いを、もう否定できなかった。



しかし、その日の夕方。

妻は女中を呼び止めた。


「少し、いいかしら」


「はい」


女中は座る。

妻はしばらく俯き気味に女中の様子をうかがうと、

やがて静かに口を開く。


「あなた」


「はい」


「最近、書斎へ行くことが増えたわね」


女中の顔が赤くなる。


「……お茶をお持ちするだけでございます」


「ええ」


妻は微笑む。


「知っているわ」


女中は大きく俯いた。


「でも……」


妻の声が少しだけ低くなる。


「お茶だけではないでしょう?」


女中は答えられない。


「……少し、お話を」


「そう」


妻は頷く。


「楽しい?」


女中は迷った。


そして答える。


「……はい」


それは、小さな声だった。

妻はその答えを聞いて、しばらく女中を見つめた。


「そう」


責める声ではない。

ただ、何かを確かめるような声だった。


「だったら、覚えておきなさい」


「……何をでしょうか」


「楽しい時間ほど、人を深く縛ることがあるの」


女中は黙った。


「嬉しいことも同じ」


妻は女中に視線を向けながら続ける。


「嬉しいからこそ、離れられなくなる」


女中の胸がざわつく。


「……はい」


「あなたは今、それを覚え始めている」


女中は何も言えなかった。

妻は、そんな女中を責めなかった。


「だから、もう一度だけ聞くわ」


「……はい」


「あなたは、本当にただ話がしたいだけ?」


長い沈黙。

女中は答えを探した。

けれど、見つからない。


いや……、見つかっているのかもしれない。

ただ、口にするのが怖い。


「……分かりません」


それが、今の女中に言える精一杯だった。

妻は静かに頷いた。


「そう」


そして、少しだけ微笑んだ。


「なら、今はそれでいいわ」


女中は顔を上げた。


「……いいのですか?」


「ええ」


妻は茶を一口飲む。


「分からないものを、無理に決める必要はないもの」


少し間を置く。


「ただし、自分で分かる日が来たら」


女中を見る。


「その時は、自分で答えなさい」


女中は静かに頷いた。


「……はい」



その夜。


女中は布団の中で、何度もその言葉を思い返した。


自分で答える。

自分で決める。


それは怖いことだった。

けれど同時に。

どこか嬉しいことでもあった。


今までの自分には、選ぶということそのものがなかった。


奉公する。

命じられたことをする。

主人に仕える。

それでよかった。


けれど今は違う。

自分の胸の中にあるものを、自分で見つめようとしている。

女中は目を閉じた。

そして、小さく呟いた。


「……明日も、お話したい」


誰にも聞こえない声だった。

けれどそれは、初めて自分自身へ認めた願いだった。

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