第69話 また、話してもいい
襖が静かに開いた。
女中は一礼して、書斎へ入る。
主人は机の前に座り、帳面を広げていた。
「そこへ置いてくれ」
「はい」
女中は盆を置いた。
湯呑みから、かすかに湯気が立ち上っている。
いつもの仕事。
いつもの書斎。
何も変わっていない。
そう思おうとした。
けれど、今日は違った。
女中はすぐには立ち上がらなかった。
主人も、帳面へ目を戻したまま何も言わない。
ほんの数秒。
それだけの時間だった。
それなのに、女中にはひどく長く感じられた。
「……何かあるのか」
主人が顔を上げた。
「いえ」
「そうか」
「……はい」
女中は立ち上がろうとした。
しかし、足が動かなかった。
「……」
主人は不思議そうに女中を見る。
「どうした」
「……あの」
女中は俯いた。
「少しだけ、お話をしてもよろしいでしょうか」
主人の手が止まった。
「話?」
「はい」
「何の話だ」
「……分かりません」
正直な答えだった。
女中自身にも、何を話したいのか分からない。
ただ。
もう少し、この部屋にいたかった。
それだけだった。
主人はしばらく女中を見つめた。
やがて小さく息を吐く。
「珍しいな」
「……申し訳ございません」
「謝ることではない」
主人は湯呑みを手に取った。
一口飲む。
「ちょっと、座るか」
「……はい」
女中は少し離れた場所へ正座した。
それだけで、胸が少し落ち着いた。
「それで、何を話す?」
「……」
「本当に何も考えていなかったのか」
「はい……」
主人は苦笑した。
「それでは困るな」
「申し訳……」
「ほら、また謝る」
女中はあわてて口を閉じた。
「謝る癖がついているぞ」
「……はい」
「それも直した方がいい」
女中は少し考えた。
「……難しいです」
「そうか?」
「はい」
「なぜだ」
「謝るのが、一番簡単だからです」
主人は黙った。
女中も、自分が思いがけないことを言ったと気づいた。
「申し訳ご……」
また口に出そうになった。
けれど、途中で止める。
主人が少し笑った。
「よし、今のは我慢したな」
「……はい」
「偉いじゃないか」
その言葉に、女中の頬が少し緩んだ。
ほんの些細なことだった。
けれど、褒められたことが嬉しかった。
主人は、その表情を見ていた。
そして、ふと視線を逸らす。
最近、この娘はよく笑う。
以前は、主人の前で笑うことさえ遠慮していた。
今は違う。
ほんの少しずつ、
自分の気持ちを表に出すようになっている。
それは良いことなのだろう。
そう思う。
だが。
その変化を、自分が喜んでいることが問題だった。
(いかん)
主人は心の中で呟いた。
ここから先へ進んではならない。
女中は奉公人だ。
自分は主人だ。
それだけで十分だ。
「……もういいだろう」
主人は帳面へ目を戻した。
「仕事がある」
「……はい」
女中は立ち上がった。
少し寂しい……。
けれど、それを顔に出してはいけない。
「失礼いたします」
「ああ」
女中は襖へ向かった。
そして、手を掛けたところで止まった。
「……旦那様」
「何だ?」
「また……」
言葉が続かない。
「また、お話をしてもよろしいでしょうか」
主人は答えなかった。
女中は俯いた。
「……申し訳ございません」
今度は、その言葉を止められなかった。
「いや」
主人の声がした。
「まあ……構わん」
女中は顔を上げる。
「本当ですか?」
「ああ」
女中の顔に、ほんの少し笑みが浮かんだ。
「ありがとうございます」
襖が閉じる。
主人は、その音を聞いてから深く息を吐いた。
(……まずいな)
机の上の帳面へ目を戻す。
文字が頭へ入ってこない。
先ほどの笑顔が、いつまでも残っている。
廊下を歩く女中は、
自分でも分からないほど軽い足取りになっていた。
また話していい。
その言葉だけが、胸の中で何度も繰り返される。
たったそれだけ。
それだけなのに。
女中は胸元へ手を当てた。
(嬉しい)
その感情を、もう否定しなかった。
今までは、嬉しいと思うことさえ怖かった。
主人に優しくされる。
それを嬉しいと思う。
それだけなら、まだ許されるのかもしれない。
そうなのだけれど……。
(もっと話したい)
その気持ちは、少しずつ大きくなっていた。
──その日の夕方。
妻は廊下で女中とすれ違った。
「ご機嫌ね」
「……え?」
「何でもないわ」
妻は微笑む。
女中は一瞬だけ迷った。
そして。
「……奥様」
「何?」
「私……」
言いかけて、やめる。
「いえ」
「そう」
妻はそれ以上聞かなかった。
ただ、その背中を見送る。
女中の歩き方が、以前とは違う。
ほんの少しだけ、自分の意思で歩いている。
妻には、それが分かるのだった。
──夜。
主人は一人、書斎にいた。
昼間のことを思い出している。
女中が座っていた場所。
笑った顔。
襖の前で振り返った姿。
そして、
「また、お話をしてもよろしいでしょうか」
という声。
主人は目を閉じた。
(……いかん)
何度目か分からない。
そう思う。
だが、その言葉を聞いた瞬間、嬉しいと思った自分も確かにいた。
その事実からは、逃げられない。
「……困ったな」
誰もいない書斎で、主人は小さく呟いた。
そして、自分でも気づかぬうちに、
昼間女中が座っていた場所へ視線を向けていた。




