第68話 最初の一歩
それから、数日が過ぎた。
屋敷の中では、何も変わったことは起きていない。
朝になれば朝餉を作る。
昼になれば洗濯をする。
廊下を掃き、庭を整え、夕餉の支度をする。
いつもと同じ一日。
いつもと同じ仕事。
それなのに。
女中の中では、何かが少しずつ変わっていた。
──昼下がり。
女中は洗濯物を畳んでいた。
縁側には冬の弱い陽が差している。
風は冷たい。
けれど、日向にいると少しだけ暖かかった。
畳んだ着物を一枚。
また一枚。
形を整えて重ねていく。
その時だった。
「それは、俺のだな」
背後から声がした。
女中の手が止まる。
「……はい」
振り返る。
旦那様が立っていた。
「そこへ置いておいてくれ」
「かしこまりました」
女中は着物を持ち上げる。
立ち上がろうとした。
その時。
「いや」
主人が言った。
「俺が持っていこう」
「ですが……」
「重いだろう」
「このくらいでしたら」
「そうか」
主人はそれ以上言わなかった。
女中も、着物を持ったまま動かなかった。
ほんの短い沈黙。
以前なら、すぐにどちらかが動いて終わっていた。
けれど今は。
二人とも、妙に相手を意識している。
主人が先に視線を逸らした。
「……では、頼む」
「はい」
女中は頭を下げる。
旦那様が去っていく。
女中は、その背中を見送った。
そして、自分が見送っていたことに気づき、
慌てて視線を落とした。
(また……)
胸が少しだけ騒いでいる。
女中は着物を抱き直した。
(どうして私は)
自分でも分からない。
ただ声を掛けられただけ。
ただ、着物のことを話しただけ。
それなのに。
その一言一言を、後から何度も思い出してしまう。
──その日の夕方。
女中が台所で夕餉の準備をしていると、旦那様がやってきた。
「何をしている」
「夕餉の支度をしております」
「そうか」
主人は台所の入口に立ったまま、しばらく様子を見ている。
女中は気になり、主人へ尋ねた。
「……何か?」
「いや」
主人は少し笑った。
「昔から変わらんなと思ってな」
「……私が、ですか?」
「ああ」
「そうでしょうか」
「仕事をしている時だけは、何も見えなくなる」
女中は手を止めた。
「あ……そう、でしょうか」
「そうだ」
主人は笑う。
「昔からそうだった」
女中は少し考えた。
確かに、仕事をしている間は余計なことを考えない。
考えてはいけないと思っていた。
けれど最近は。
仕事をしていても、ふと旦那様のことを考えてしまう。
そのことを、自分だけが知っている。
「……旦那様」
「何だ」
「私は……」
言葉が出かかった。
けれど、続かなかった。
「……何でもございません」
「そうか」
主人も、それ以上は聞かなかった。
ただ、少しだけ女中の顔を見ていた。
主人が去った後、女中は包丁を置いた。
胸に手を当てる。
(言いたかった)
何を言いたかったのか。
自分でも分からない。
ただ、声を掛けたかった。
もう少し話したかった。
それだけだった。
それだけなのに。
それが以前とは違うことを、女中自身が分かっていた。
──その夜。
奥様は女中へ声を掛けた。
「ちょっと来なさい」
「はい」
女中は奥様の前へ座った。
妻はすぐには何も言わなかった。
茶を一口飲む。
そして、女中を見る。
「最近、楽しそうね」
「……え?」
女中は目を丸くした。
「そうでしょうか」
「ええ」
「私は……いつも通りでございます」
「そうね」
妻は微笑む。
「仕事はいつも通り」
湯呑を軽くなでる。
「でも、顔が違うわ」
女中は俯いた。
「……申し訳ございません」
「どうして謝るの?」
「いえ……」
答えられない。
妻はしばらく女中を見ていた。
「あの人と話したでしょう」
「……はい」
「何を話したの?」
「仕事のことを少し」
「そう」
妻はそれ以上追及しなかった。
けれど、女中には分かった。
妻には、何かが見えている。
「ねえ」
妻が静かに言った。
「あなた、最近、自分からあの人を見るようになったわね」
女中の身体が固まった。
「あの……そんなことは」
「あるわ」
即答だった。
女中は顔を上げられない。
「前はね」
妻は続けた。
「あの人があなたを見ていても、あなたは気づかなかった」
「……」
「今は違う」
胸の奥が大きく鳴る。
「あの人が廊下を歩けば、あなたは足音を聞いている」
女中は息を呑んだ。
「名前を呼ばれれば、すぐに返事をする」
「……」
「そして、あの人が去った後」
妻は少しだけ笑った。
「その背中を見ている」
女中の顔が熱くなる。
「……申し訳ございません」
「だから、なぜ謝るの」
「私は……」
言葉が詰まる。
妻は責める様子を見せなかった。
「悪いことをしているわけじゃないでしょう」
「でも……」
「でも?」
女中は答えられなかった。
妻は茶を置いた。
「自分の気持ちに気づくことと、その気持ちに従うことは別よ」
女中は、ゆっくり顔を上げた。
「……別?」
「ええ」
「では……」
「気づいてしまったことを、恥じる必要はない」
妻の声は穏やかだった。
「ただし」
少しだけ表情が変わる。
「気づいたなら、自分で考えなさい」
女中は黙っていた。
「あの人が優しいから、優しくされたから、
守ってもらったから」
女中の指先が震える。
「それだけで、
自分の人生まで決めてしまってはいけないわ」
女中は俯いた。
胸の奥に、白磁の欠片が浮かぶ。
壊れた皿。
旦那様の腕。
守ると言ってくれた声。
それらが、ひとつにつながっていく。
「……私は」
女中は小さく呟いた。
「旦那様に、もっと……」
そこで言葉を止める。
「もっと?」
妻が待つ。
「……お話をしたいと」
それだけ言うのが精一杯だった。
妻は静かに頷いた。
「そう」
それ以上、何も言わない。
女中は胸の奥で、初めて自分の望みを言葉にしたことに気づいた。
もっと話したい。
もっと近くで、その人を知りたい。
ただそれだけ。
けれども……。
その「ただ」が、以前の自分には存在しなかった。
────翌日。
女中は、いつもより少し早く書斎の前を通った。
中から物音がする。
主人がいる。
女中は一度通り過ぎた。
そして、数歩進んだところで立ち止まる。
戻る。
襖の前へ立つ。
手を上げる。
しかし、叩くことができない。
(何をしているの)
自分でもおかしくなる。
用事はない。
ただ顔を見たい。
ただ声を聞きたい。
そんな理由で主人の部屋を訪ねることなど、
女中の立場では許されない。
女中は手を下ろした。
そして、そのまま立ち去ろうとした。
「……誰だ?」
中から声がした。
女中の足が止まる。
「……私でございます」
「女中か」
「はい」
「何か用か?」
女中は答えられなかった。
「……」
「どうした?」
女中は襖へ手を添えた。
「……お茶を」
「頼んでいないぞ」
「……申し訳ございません」
帰ろうとした。
けれど。
「まあ、いい」
主人の声がした。
「せっかくだ。入れ」
「……はい」
襖が開く。
女中は静かに頭を下げた。
その胸の中で、何かが小さく震えていた。
自分から来た。
初めて。
ほんの些細なことだった。
けれど、それは確かに、自分で選んだ一歩だった。




