第67話 私は何を望んでいるのだろう
その日の朝から、女中は懐に入れた白磁の欠片を意識しないようにしていた。
仕事をしている間は、忘れていられる。
洗濯をしている時も。
廊下を拭いている時も。
朝餉の支度をしている時も。
いつも通りに身体を動かしていれば、余計なことを考えずに済む。
けれど、ふと手が止まる瞬間がある。
そのたびに思い出してしまう。
昨夜のこと。
旦那様の腕。
自分を支えた手。
そして、
「俺が守る」
その言葉。
女中は箒を動かす手を止めた。
「……」
胸元へ手を添える。
懐の奥には、あの欠片がある。
冷たいはずなのに、そこにあるだけで妙に熱を感じた。
女中は小さく首を振る。
いけない。
仕事をしなければ。
そう思って、再び箒を動かす。
しかし今度は、別のことが頭に浮かんだ。
自分は、なぜあれほど旦那様の言葉が嬉しかったのだろう。
主人が奉公人を守る。
それだけのことだ。
珍しいことではない。
そう言い聞かせようとする。
けれど、胸の奥に生まれてしまったものは、簡単には消えてくれなかった。
──昼前。
主人が廊下を歩いてきた。
女中はすぐそれにに気づいた。
いつもの足音。
それだけで、身体がわずかに反応する。
顔を上げてはいけない。
そう思った。
しかし、旦那様の足音が近づくにつれて、どうしても意識してしまう。
「……おい」
声を掛けられた。
「はい」
女中はすぐに返事をした。
「昨日の腕はどうだ」
女中は一瞬、何のことか分からなかった。
それから、昨夜のことを思い出す。
「……大丈夫でございます」
「そうか」
旦那様は、それだけ言った。
女中も頭を下げる。
それで終わるはずだった。
けれど。
「無理をするなよ」
主人はそう付け加えた。
「はい……」
主人はそのまま歩いていく。
女中はしばらく、その背中を見つめていた。
そして、自分でも気づかないうちに、小さく笑っていた。
そのことに気づくと、慌てて顔を伏せる。
(……いけない)
胸の中が、また少しだけ軽くなっている。
その様子を、廊下の奥から妻が見ていた。
女中が気づく前に、静かに視線を逸らす。
何も言わない。
ただ、覚えておく。
最近のあの子は、少しずつ変わってきている。
以前なら、旦那様から声を掛けられると、ただ恐縮していた。
今は違う。
ほんの一瞬。
旦那様の姿を目で追う。
そして、そのあとに自分でも気づかないような表情を浮かべる。
妻には、それが分かった。
「……そう」
小さく呟く。
責める気にはならなかった。
むしろ、いつか来ると思っていた時が、
少し早く来ただけなのかもしれない。
人は、いつまでも同じではいられない。
特に、若い者は。
昨日まで子どもだった者が、ある日突然、自分の心を持ち始める。
それは悪いことではない。
ただ。
心を持ったなら、
その心が何を望んでいるのかを知らなければならない。
妻はそう思った。
──夕方。
女中は女中部屋で、一人になっていた。
小さな机の上に灯りを置く。
懐から白磁の欠片を取り出した。
掌の中へ載せる。
藍色の松。
昨日まで大皿の一部だったもの。
女中はそれをじっと見つめた。
(旦那様は、私を守ってくださった)
その事実は変わらない。
けれど。
(私は……何を望んでいるのだろう)
その問いが、初めて自分の中から出てきた。
これまでなら、そんなことを考えることさえなかった。
女中は女中。
主人に仕える。
それが自分の役目。
それ以上でも、それ以下でもない。
そう思っていればよかった。
けれど今は、その言葉だけでは胸の奥を説明できない。
旦那様に優しくされると嬉しい。
声を掛けられると嬉しい。
心配されれば、もっと嬉しい。
それは、ただ主人を慕っているだけなのだろうか。
女中は白磁の欠片を握った。
鋭い縁が掌に触れる。
少し痛い。
けれど、手放さなかった。
(私は……)
そこまで考えて、女中は目を閉じた。
答えを出すのが怖かった。
答えてしまえば、今までの自分には戻れない気がした。
─数日後。
旦那様が書斎から出てくると、廊下で女中と出会った。
「お茶を頼めるか」
「はい」
女中はいつものように頭を下げる。
しかし、以前とは少しだけ違った。
顔を上げるまでの時間が短い。
主人も、その変化に気づいた。
「……どうした」
「何がでしょうか」
「いや」
主人は少し考える。
「何でもない」
「はい」
女中は微笑んだ。
ほんの小さな笑みだった。
けれど主人は、
その笑みを見てから、なぜかすぐには歩き出せなかった。
女中もまた、動かなかった。
二人の間に、ほんの数秒の沈黙が生まれる。
それは、以前なら何でもなかった沈黙だった。
けれど今は違う。
何かを言えば、変わってしまいそうだった。
「……では、お茶を」
「ああ」
女中が頭を下げる。
そのまま去っていく。
主人は、その背中を見送った。
(……何だ)
自分でも分からなかった。
ただ、以前とは何かが違う。
女中の方も、同じことを感じていた。
──その夜。
女中は一人で布団へ入った。
眠れない。
目を閉じると、今日の出来事が浮かんでくる。
ほんの少し笑った。
旦那様も、ほんの少し立ち止まった。
たったそれだけ。
それなのに、胸が騒ぐ。
(これ以上はいけない)
そう思う。
けれど。
(……でも)
心の中に、もう一つの声がある。
それを消すことができない。
女中は懐へ手を入れた。
白磁の欠片を取り出す。
月明かりの中で、それを眺める。
壊れたものは、元には戻らない。
でも、壊れたからこそ、その形が以前とは違って見えることもある。
女中は、その意味をまだ知らなかった。
ただ一つだけ。
自分の心が、以前とは違っている。
それだけは分かっていた。
そして、それを誰かに決めてもらうのではなく。
自分自身で確かめなければならない。
そんな思いが、女中の中に初めて芽生えていた。
それはまだ、とても小さなものだった。
しかし、もう、消えることはなかった。




