第66話 白磁の欠片
女中の記憶は、昨日の顛末へ遡っていた。
思い出そうとしたわけではない。
ただ、目を閉じれば自然と浮かんでくる。
大皿が指先から滑った瞬間。
踏み台が軋んだ音。
身体が宙へ投げ出されるような感覚。
そして、自分を引き寄せた旦那様の腕。
その直後に響いた、白磁の砕ける音。
女中は唇を噛み締めた。
それでも、涙は止まらなかった。
むしろ思い出せば思い出すほど、涙はさらに溢れてくる。
白磁の大皿は、床へ落ちると同時に激しい音を立てた。
乾いた破裂音が台所いっぱいへ響き渡る。
その音は、今でも耳の奥に残っている。
白い破片が四方へ飛び散り、灯火を受けて鋭く光った。
女中は旦那様の腕の中で、その音だけを呆然と聞いていた。
身体は助かった。
けれど、胸の中には別の何かが落ちてしまったような気がした。
やがて現実が押し寄せる。
床いっぱいに散らばる破片。
奥様が大切にしていた宴用の器。
もう二度と元には戻らない。
「申し訳ございません……」
震える声が漏れる。
旦那様は女中をゆっくり立たせると、自らしゃがみ込み、大きな破片を拾い始めた。
「怪我をする」
穏やかな声だった。
「お前は動くな」
女中は首を横へ振る。
「私が……」
「駄目だ」
旦那様は珍しく強い口調で言った。
「割れ物は慌てるほど危ない」
女中は、その言葉に胸を突かれた。
自分の失敗を責めるのではなく、まず自分の身体を心配している。
そのことが、かえって苦しかった。
女中は膝をついたまま動けなくなる。
旦那様は一枚一枚、丁寧に破片を集めていく。
指先で大きさを確かめながら、危険な欠片を拾い上げる。
その姿を、女中はただ見つめていた。
自分が壊したものを、
自分の代わりに片付けてくれている。
やがて旦那様は苦笑しながら立ち上がると、
囲炉裏の脇へ置いてあった徳利を取り上げた。
「……まだ足りんな」
そう呟いて盃へ酒を注ぐ。
女中は、その意味を理解できないまま見つめていた。
旦那様は一息に飲み干す。
もう一杯。
さらにもう一杯。
女中は驚いて顔を上げた。
「旦那様……」
旦那様は空になった盃を静かに置いた。
「これくらい飲んでおけば」
小さく笑う。
「妻も納得するだろう」
女中の顔から血の気が引いた。
「まさか……」
旦那様は女中を見る。
「俺が酔って手を滑らせた」
静かに言った。
「そういう話にする」
女中は目を見開いた。
自分のために、そこまでするのか。
「そんな……」
「いいな」
女中は首を激しく振る。
「それはいけません」
自分の失敗なのだ。
自分が正直に話せば済むことだ。
旦那様が嘘をつく必要などない。
「いいな」
旦那様は繰り返した。
「俺が割ったことにする」
その声は穏やかでありながら、有無を言わせぬ響きを帯びていた。
「ですが……」
「良いな」
三度目だった。
女中は唇を震わせる。
涙が滲む。
言葉は出ない。
自分のためにここまで言ってくれる人へ、
どうして逆らえるだろう。
ただ小さく頷くことしかできなかった。
「……はい」
旦那様は安心したように微笑んだ。
「それでいい」
その笑顔が、女中の胸へ深く残った。
この人は、自分を責めない。
自分を見捨てない。
その事実が、怖いほど嬉しかった。
翌朝。
女中は誰より早く台所へ入った。
まだ屋敷には朝の静けさが残っている。
障子の向こうから、薄い冬の光が差し込んでいた。
昨夜のことが嘘だったように、台所はいつも通りに見える。
けれど女中には、何もかもが違って見えた。
昨夜までそこにあった大皿は、もうない。
その場所だけが、不自然に空いている。
女中はしばらくそこを見つめていた。
やがて視線を床へ落とす。
昨夜掃き切れなかった細かな欠片が、まだ隅に残っている。
箒で集めながら、一枚だけ少し大きな破片が目に留まった。
女中は箒を止めた。
白磁に藍色の松が描かれている。
昨日まで、美しい器だったもの。
指先で触れるのを躊躇う。
それでも、そっと拾い上げた。
手の中で、欠けた白磁が朝の光を受けている。
(旦那様は……私を守ってくださいました)
女中は目を伏せた。
悪いのは自分だった。
それなのに主人は、自ら罪を背負った。
奥様へ頭を下げることさえ、
自分の代わりに引き受けるのだろう。
その優しさを、自分は忘れてはならない。
忘れてしまえば、
自分はまた同じように人の優しさへ甘えてしまう。
女中は辺りを見回す。
誰もいない。
静かな朝だった。
女中は、拾った欠片をしばらく掌の中で握っていた。
そして静かにその欠片を懐へ忍ばせた。
自分が犯したことを忘れないために。
旦那様が自分を庇ってくれたことを、忘れないために。
白磁の縁は鋭く欠けている。
着物の合わせから肌着へ触れた瞬間、小さな痛みが走った。
「……っ」
女中は眉を寄せる。
浅く皮膚をかすめたらしい。
温かなものが滲み、白い肌着へ小さな赤い染みを作る。
女中は欠片を取り出そうとはしなかった。
この痛みは、自分への戒めだった。
主人の優しさへ甘えたこと。
自分の不注意で大切な器を壊したこと。
そして、その罪を旦那様に背負わせてしまったこと。
それらを決して忘れてはならない。
そう思った。
けれど同時に、その痛みの中には別の感情も混じっていた。
旦那様に守られたという記憶を、自分の中から失いたくない。
そのことに気づき、女中は自分でも戸惑った。
女中は静かに襟元を整える。
懐の奥で、白磁の欠片が微かに肌へ触れていた。
その冷たさは、昨日の旦那様の温かな手とは、
あまりにも対照的だった。
女中は目を閉じる。
冷たい欠片を感じながら、昨夜の温もりを思い出していた。
その記憶は、涙とともに胸の奥へ沈んでいった。
そして女中は、何事もなかったかのように箒を握り直した。




