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家の内側、女中の気配が変わるころ  作者: てきてき@tekiteki


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第65話 優しさが怖い

 割れた大皿の破片は、翌朝にはきれいに片付けられていた。

細かな欠片まで残らぬよう、

箒で掃き集められ、布で何度も拭かれている。


そこに皿があったことさえ、もう分からない。

しかし、割れた事実だけは消えない。


女中は朝から、そのことばかりを考えていた。

朝餉の支度をしながらも、昨夜のことが頭から離れない。


旦那様の腕。

自分を支えてくれた手。

そして、


「俺が守る」


その言葉。


胸の奥に残ったまま、何度思い返しても消えてくれなかった。

朝餉を終えたあと、妻は静かに居間へ入ってきた。


主人は何も言わず、座布団の前へ進む。

そして、ゆっくりと正座をした。


その姿を見た瞬間、女中の胸がざわついた。

襖の外で、息を殺す。


昨夜のことだ。

旦那様は本当に、自分が割ったと言うつもりなのだ。

女中は思わず指先を握り締めた。


どうすればいい。


今からでも、本当のことを言うべきではないのか。

そう思う。

けれど、口を開く勇気が出ない。


もし自分が名乗り出れば、

旦那様が庇ってくれたことを無駄にしてしまう。

それが怖かった。



「あなた」


妻は静かな声で言った。


「昨日のお皿のことですが」


「ああ」


主人はは素直に頷く。


「私が落としてしまった」


その一言に、女中は思わず襖へ手をついた。

指先に力が入る。


(違います)


声を出したかった。

喉元まで言葉が出かかる。

けれど、声にはならなかった。


全部、自分のせいなのだ。

踏み台へ乗ったのも。

無理に手を伸ばしたのも。

大皿を落としたのも。


すべて自分だった。

なのに。

旦那様は、それを自分の過ちとして引き受けようとしている。


「そうですか」


妻は静かに息をついた。

責めるような声ではない。


だからこそ、女中には余計に苦しかった。


「あのお皿は」


溜息ともいえぬ物がが言葉尻に混じる。


「母の形見だったのですよ」


主人は目を伏せる。


「……すまん」


その声を聞き、女中の胸がさらに締め付けられた。

母の形見。

そんな大切なものだったとは知らなかった。


昨夜、綺麗だと思って眺めていた器。

それを自分が壊してしまった。


「私は、お皿が惜しいとは思いません」


妻の声は穏やかだった。

女中は、わずかに顔を上げる。


「でも」


少しだけ口調が厳しくなる。


「あなたは、ご自分が酔っていることをご存じだったでしょう」


主人は何も言い返さない。


「危ないから私が行きます、と申し上げましたね」


「ああ」


「それなのに、夜中まで片付けを手伝い、

大きな器まで持ち上げて」


妻は小さく首を振る。


「もう若い頃とは違うのです」


その言葉には、怒りよりも心配が滲んでいた。

主人は黙ったまま正座を崩さない。


「怪我でもなさったら、どうするおつもりでした」


「……悪かった」


その一言だけだった。


「本当に反省しておりますか?」


「ああ」


「返事だけでは駄目です」


妻は珍しく厳しかった。

しかし、その厳しさの奥には、主人を案じる気持ちがある。


「あなたがお怪我をなさる方が、私はずっと悲しいのですよ」


その言葉を聞いた主人は、しばらく黙っていた。

そして、深く頭を下げた。


「心配を掛けた」


畳へ額が着くほど、静かに頭を垂れる。


「すまなかった」


女中は襖の向こうで、その光景を見つめていた。


胸が痛かった。

奥様は悪くない。

旦那様も、本当は悪くない。


それなのに。

自分だけが何も言わず、ここにいる。



襖の向こうで、その姿を見ていた女中は唇を噛み締めた。


違う。

違うのに。

叱られているのは旦那様だ。

自分を庇ったばかりに。


胸が締め付けられる……。

このままここにいれば、声を上げてしまいそうだった。


女中はそっと襖から手を離す。

一礼をしてから、足音を立てぬよう、一歩ずつ後ろへ下がった。


これ以上見ていられなかった。

女中は音を立てぬよう廊下を離れる。

誰にも見つからぬよう、庭の隅へ歩いていった。



 冬枯れの庭には、人影がない。

冷たい風が庭木の枝を揺らしている。

山茶花だけが静かに咲いている。

その赤い花が、灰色の冬景色の中で妙に鮮やかだった。


女中は木の陰へ身を寄せると、その場へしゃがみ込んだ。


「……っ」


声を出してはいけない。

奥様にも。

旦那様にも。

聞かれてはいけない。


両手で口を押さえる。

それでも涙は止まらなかった。


堪えようとすればするほど、胸の奥から込み上げてくる。

肩が震える。

嗚咽を飲み込もうとするたび、胸が痛む。


(どうして……)


どうして、あんな優しい人ばかりなのだろう。

奥様は旦那様を案じて叱っている。

旦那様は私を守るために嘘をついた。


悪いのは自分だけなのに。

自分だけが、何一つ償えていない。

それどころか、自分は二人の優しさに甘えている。


そのことが、たまらなく苦しかった。


「ごめんなさい……」


声にならない。

小さく唇が動くだけだった。


「ごめんなさい……」


何度繰り返しても、胸の苦しさは消えない。

昨夜、旦那様に支えられたときの温もりまで思い出してしまう。


あの腕の中にいた瞬間だけは、何も怖くなかった。

それが、今は怖かった。


優しくされるほど。

守られるほど。


自分は、この人から離れられなくなってしまうのではないか。

そんな予感が、胸の奥に小さな影を落とした。


冬の風が吹き抜ける。

女中は両手で自分の身体を抱くようにして、さらに小さくなる。


涙が頬を伝い、落ち葉の上へ静かに落ちた。

誰にも見られない庭の隅で。

女中は声を殺しながら、子どものように泣き続けていた。


そしてその涙の奥で、旦那様への想いは、

本人にもまだ気づかぬほど静かに、少しずつ形を変え始めていた。

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