第64話 俺が守る
大皿が指先から滑り始める。
灯火を受けた白磁が、ゆっくりと宙へ傾いていった。
「しまっ……」
女中は咄嗟に器を抱え直そうとした。
落としてはいけない。
その思いだけが頭の中を駆け巡る。
しかし、その動きがかえって身体の重心を崩す。
踏み台の脚が、ぎしりと鳴った。
「……っ」
嫌な音だった。
女中は足元を戻そうとする。
だが、もう遅い。
身体が前へ倒れる。
器を落としてはいけない。
それだけを考え、女中は反射的に腕を伸ばした。
けれど、大皿の重みは容赦なく身体を引きずった。
「あっ――」
足が踏み台から外れる。
女中は宙へ投げ出されるように傾いた。
目の前には、灯火に照らされた棚。
その向こうには、何もない空間。
ほんの一瞬の出来事なのに、
時間がひどくゆっくりになったように感じられた。
このままでは倒れる。
そう思った瞬間だった。
居間にいた主人は、その物音に顔を上げた。
先ほどまでの静けさとは明らかに違う。
何かが倒れる鈍い音。
続いて、食器の触れ合う甲高い響き。
主人は反射的に立ち上がった。
「どうした!」
返事を待つことなく、台所へ駆け込む。
そして、その瞬間だった。
踏み台から落ちようとする女中の姿が目へ飛び込んできた。
「危ない!」
主人は迷うことなく腕を伸ばした。
女中の腕を掴む。
そのまま強く引き寄せた。
女中の身体が大きく揺れる。
勢いのまま、女中は旦那様の胸へ倒れ込んだ。
「……っ!」
何が起きたのか理解するより先に、身体を支えられていた。
次の瞬間。
――ガシャーン!
白磁の大皿が床へ落ち、激しい音を立てて砕け散った。
細かな破片が畳の上へ散らばる。
静かな屋敷へ、その音だけが大きく響いた。
その余韻が消えても、女中は動けなかった。
女中は主人の腕の中で固まっていた。
何が起きたのか、まだ頭が追いついていない。
ただ、耳の奥で自分の鼓動だけが激しく鳴っている。
息も上手くできない。
主人は女中をしっかり支えたまま、低い声で尋ねた。
「怪我はないか」
返事がない。
旦那様はもう一度、女中の様子を確かめるように顔を覗き込む。
「どこか打ったか」
女中はようやく小さく首を横へ振った。
しかし、その顔は見る見るうちに青ざめていく。
視線は旦那様から離れ、床へ散らばった破片へ釘付けになっていた。
白い破片。
砕けた金彩。
先ほどまで自分の手の中にあったもの。
「……割って」
震える唇が動く。
「割ってしまいました……」
声が震えていた。
奥様が大切にしていた器。
宴の日しか使わない、大事な皿。
それを、自分が割ってしまった。
その事実だけで、頭の中が真っ白になる。
「申し訳……」
言葉が途中で途切れた。
喉が詰まり、息が苦しくなる。
「申し訳ございません……」
女中は何度も頭を下げようとした。
だが、身体を支えられているため、上手く動けない。
涙が目に溜まる。
もし奥様に知られたら。
もし、この家から追い出されたら。
そんな考えが次々と浮かんでは消えていった。
主人は散らばった破片を一瞥した。
しばらく何も言わなかった。
それから、女中へ視線を戻す。
そして静かに微笑んだ。
「大丈夫だ」
女中はゆっくり顔を上げる。
「……え」
「俺が割ったことにすればいい」
その声は驚くほど穏やかだった。
まるで、大したことではないと言うように。
女中は目を見開いた。
「旦那様……」
「お前が怪我をしなかった。それでいい」
女中は何度も首を横へ振る。
「それは……」
言葉が続かない。
そんなことはできない。
主人へ責任を負わせるなど。
まして、自分の不注意なのだ。
「でも……私が……」
涙が頬を伝う。
「私が、ちゃんと気を付けていれば……」
旦那様は首を横へ振った。
「もういい」
その短い言葉に、女中は黙り込んだ。
責める気配は、どこにもない。
それがかえって苦しかった。
「それは……そんな……」
声が震える。
涙が次々と溢れてくる。
旦那様はなおも女中の肩を支えながら、小さく頷いた。
「安心しなさい」
その一言が、静かな台所へ落ちる。
「俺が守る」
女中は息を呑んだ。
胸の奥が、大きく揺れた。
その言葉は、割れた皿のことだけを言っているはずだった。
奉公人を叱責から守る。
主人として当然の務め。
それだけの意味しかない。
そう分かっている。
分かっているのに。
その言葉は、女中の心の奥へ真っ直ぐ届いてしまった。
自分を守ってくれる。
責めないでいてくれる。
失敗しても、見捨てないでくれる。
そんな思いが、堰を切ったように胸へ押し寄せてくる。
女中はとうとう堪え切れず、旦那様の胸へ額を預けた。
「……申し訳、ございません……」
もう一度、そう呟く。
けれど今度の声には、先ほどとは違うものが混じっていた。
安堵だった。
肩が小刻みに震える。
声を押し殺しながら、涙だけが次々と溢れていく。
主人は何も言わなかった。
ただ泣き止むまで、幼い子どもを安心させるように、
その肩へ静かに手を添えていた。
台所には、二人の呼吸だけが残っている。
やがて女中の震えが少しずつ収まっていく。
それでも、女中はすぐには身体を離そうとはしなかった。
離れなければならない。
そう思っている。
それなのに、今だけは、この腕の中から離れたくなかった。
──冬の夜。
割れた白磁の破片が灯火を受け、小さく光っていた。
その一つ一つが、先ほどまで何事もなくそこにあった器の名残だった。
けれど女中には、それだけには見えなかった。
何かが壊れた。
そして同時に、何かが生まれてしまった。
そんな気がした。
灯火がかすかに揺れる。
その光は、二人の足元に散らばった白磁を照らしながら、
二人の運命が再び静かに揺れ始めたことを告げるようでもあった。




