第63話 器の重み
妻を見送ると、屋敷は急に広くなったように感じられた。
先ほどまで人の気配があった玄関も、
今はひっそりとしている。
玄関の戸が閉まる音が、静かな夜へ吸い込まれていく。
その音をしばらく聞いていた主人は、
やがて居間へ戻った。
囲炉裏の火が、赤く小さく揺れている。
酒は少し残っている。
しかし酔いは、もうほとんど醒めていた。
先ほどまでの宴の名残だけが、部屋のあちこちに残っている。
使い終えた座布団。
片付けられていない徳利。
灰皿に残った煙草の吸い殻。
人がいた証は確かにある。
それなのに、今はひどく遠いもののように思えた。
外では木枯らしが竹を鳴らしている。
時折、庭の木の枝が擦れる音も聞こえた。
その音だけが、屋敷の静けさを際立たせていた。
一方、台所では女中が最後の洗い物を終えていた。
大皿をすすぎ、布巾で丁寧に水気を拭き取る。
盃も徳利も、傷一つ付けぬよう慎重に布を滑らせる。
宴の日だけ使われる食器は、どれも普段のものとは違っていた。
厚手の染付。
細かな金彩。
深い藍色が灯火を受けて静かに光っている。
女中は、ひとつひとつを手に取るたび、
その重みを確かめるように指を添えた。
普段使っている器なら、多少音を立てても気にはしない。
けれど、これは違う。
奥様が大切にしているものだ。
扱うときには、自然と呼吸まで浅くなる。
「……綺麗」
思わず声が漏れた。
女中は一枚の大皿を両手で持ち上げる。
縁へ描かれた松と鶴。
細い筆で描かれた枝には、ところどころ金が施されている。
灯火が揺れるたび、金彩が小さく瞬いた。
これほど見事な器を手にする機会は、
一年でも数えるほどしかない。
使うたびに奥様が、
「これは気を付けてね」
と微笑んでいた理由が、今ならよく分かる。
器そのものが、美術品のようだった。
女中はしばらく見入っていた。
その横顔には、ほんの少しだけ幼い頃の面影が残っていた。
昔なら、こんな器を持たせてもらうことさえ怖かっただろう。
手を滑らせて割ってしまえばどうしよう。
そんなことばかり考えていた。
けれど今では、重さも形も、手に取れば分かる。
自分も、それだけ長くこの家にいるのだ。
そう思うと、胸の奥に小さな感慨が浮かんだ。
女中は、ふっと息を吐く。
「いけない」
いつまでも眺めている訳にはいかない。
片付けなくては。
宴用の器は、普段使いの棚には置かれていない。
滅多に出し入れしないため、
台所の一番高い棚へしまわれている。
女中は隅へ立て掛けてある木の踏み台を運んできた。
年季の入った踏み台は、少し軋んだ音を立てる。
女中は一度、足元を確かめた。
長く使われてきたものだけに、木は少し痩せている。
それでも、いつもの踏み台だった。
「大丈夫……」
小さく呟いてから、慎重に乗る。
一段。
もう一段。
ようやく棚の高さへ目線が届いた。
上段には、普段使わない器が幾つも並んでいる。
奥へ手を伸ばすには、少し身体を伸ばさなければならない。
「よいしょ……」
両手で大皿を抱え、ゆっくり腕を伸ばす。
棚は思ったより奥が深い。
器を一番奥へ納めようとすると、
身体を少し乗り出さなければ届かなかった。
女中は片足に力を込める。
(もう少し、あと少しだけ)
その時だった。
重ねた皿の重みが、わずかに腕の外側へ傾く。
「あっ……」
女中は咄嗟に支えようとする。
しかし大皿は思った以上に重かった。
両腕が前へ引かれる。
指先に、器の滑らかな感触が伝わった。
(落としてはいけない)
それだけが頭を占める。
踏み台の上で身体の重心が崩れた。
足元が、かすかにぐらつく。
「……っ!」
踏み台が小さく軋み、片脚が畳の目へずれた。
女中は息を呑む。
身体を戻そうとすれば、器が危ない。
器を支えようとすれば、自分が倒れる。
ほんの一瞬。
その判断に迷ったことが、さらに身体を前へ傾けてしまった。
大皿が指先から滑り始める。
「……!」
声にならない息が漏れる。
灯火を受けた白磁が、ゆっくりと宙へ傾いていった。




