第62話 二人だけの屋敷
客が帰ったあとの屋敷は、急に静けさを取り戻した。
先ほどまでの笑い声が嘘のように消え、
囲炉裏の炭だけが赤く小さく燃えている。
女中は台所で後片付けに追われていた。
盃を洗い、徳利をすすぎ、大皿を布で丁寧に拭き上げる。
水の流れる音だけが、静かな台所へ響いていた。
宴が終われば、奉公人の仕事はまだ続く。
忙しく身体を動かしている方が、余計なことを考えずに済む。
そう思っていた。
それでも。
(この娘は、うちには欠かせない者です)
旦那様の言葉は、水音の向こうから何度でも聞こえてくる。
女中は小さく首を振った。
「……いけません」
冷たい井戸水へ両手を浸す。
手は冷えていくのに、胸の熱だけは少しも冷めなかった。
一方、居間では旦那様が座布団を重ねていた。
卓を片付けようとした時、小さな風呂敷包みが目に留まる。
「これは……」
手に取る。
今夜訪れた町医者の持ち物だった。
主人は苦笑した。
「忘れていったか」
中には薬が入っているらしく、
包みは軽いようでいて意外にしっかりとした重みがあった。
「おーい」
妻が居間へやって来る。
「何でしょう」
「先生が忘れ物をしていったようだ」
風呂敷を差し出す。
妻は一目見るなり頷いた。
「あら、本当」
「届けてこようと思う」
主人は羽織へ手を伸ばす。
その腕を、奥様が静かに止めた。
「駄目です」
「これくらい近いぞ」
「近くても駄目です」
妻は優しく微笑む。
「今夜はお酒を召し上がっておりますでしょう」
「少しだけだ」
「その少しが危ないのです」
主人は苦笑した。
「大袈裟だな」
「大袈裟ではありません」
妻は風呂敷を受け取る。
「夜道ですもの。転んだらどうなさるのです」
「そんな歳では……」
「十分、そのお歳です」
その返事に主人は思わず笑ってしまう。
「敵わんな」
「ええ、敵いません」
妻も笑った。
「私が届けてまいります」
「一人でか」
「すぐ近くですもの」
主人は少し考えたが、やがて静かに頷いた。
「では頼む」
「承知しました」
妻は羽織をまとい、風呂敷を抱える。
その様子を、台所から出てきた女中が見ていた。
「奥様、お出掛けでございますか」
「先生のお忘れ物を届けてまいります」
「私がお持ちいたしましょうか」
女中が一歩前へ出る。
しかし妻は穏やかに首を横へ振った。
「いいえ」
優しい笑顔だった。
「あなたは後片付けを済ませてちょうだい」
「ですが……」
「旦那様のお茶もお願いね」
女中は静かに頭を下げる。
「……かしこまりました」
妻は玄関で草履を履く。
戸を開けると、冬の夜気がひやりと流れ込んできた。
「行ってまいります」
「ああ、気を付けて」
主人は玄関まで見送る。
戸が静かに閉まる。
屋敷には、主人と女中、二人だけが残された。
台所では水音が響き、居間では囲炉裏の炭が小さく音を立てる。
ほんのしばらくの間だけ。
二人きりになった屋敷は、不思議なほど静かだった。




