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家の内側、女中の気配が変わるころ  作者: てきてき@tekiteki


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第60話 家に手を掛ける

 十一月も終わりに近づくと、

屋敷は冬を迎える支度で慌ただしくなった。

障子を張り替え、畳を干し、煤払いを済ませる。


庭木には雪吊りが施され、軒先には干し柿が橙色に揺れていた。

冬は静かにやって来る。

けれど迎える者には、思いのほか忙しい季節でもあった。



「さあ、今日は障子を張り替えましょう」


妻の声に、女中は「はい」と返事をする。

障子紙を切り揃え、糊を溶き、桟を一本ずつ丁寧に拭いていく。

破れた紙を剥がし終える頃には、旦那様も書斎から出てきた。


「今日は私も手伝おう」


「あなたまで?」


妻が笑う。


「書斎に閉じこもっているより、その方が健康によろしいですもの」


「毎年その台詞を聞いている気がするな」


三人は思わず笑った。

そんな何気ない会話が、屋敷の空気を柔らかくしていた。



 主人は器用とは言えなかった。

障子紙へ糊を付け過ぎてしまい、紙が少し波打つ。


「これは……失敗だな」


苦笑すると、妻が吹き出した。


「あなた、昔から不器用でしたもの」


「本ばかり読んできた報いかな」


女中も思わず笑ってしまう。

主人が照れくさそうに頭を掻く姿は、どこか少年のようだった。


「笑われてしまった」


「申し訳ございません」


女中は慌てて頭を下げる。

しかし主人も笑っていた。


「いや、笑われるくらいがちょうどいい」


その一言で、三人の笑い声がまた重なった。



 昼には妻が握り飯を用意した。


漬物と沢庵、それに熱い番茶。

豪華ではない。

けれど冬支度の途中で囲む昼餉は、不思議と格別だった。


「外でいただきましょう」


妻の提案で、三人は縁側へ腰を下ろす。


庭には冷たい風。

空は高く澄み渡っていた。


「こういうご飯が、一番うまい」


主人が握り飯を頬張る。


「働いた後だからでしょう」


妻が笑う。


「それとも私の腕かしら」


「どちらもだ」


その返事に妻は満足そうに頷いた。

女中はその夫婦のやり取りを見つめ、小さく微笑む。


もう胸は痛まなかった。


いや、痛みはある。

けれど、それ以上に温かなものが心へ広がっていた。


 午後は煤払いだった。

長い竹竿を持った主人が天井を払い、女中が下で埃を受ける。


「失礼します」


女中が桶を動かそうとした時だった。

主人が足を滑らせる。


「あっ」


ぐらり、と身体が揺れた。

女中は思わず手を伸ばす。


「旦那様!」


二人の手が一瞬だけ触れた。

それだけだった。

ほんの一瞬。


すぐに主人は体勢を立て直し、小さく笑う。


「年かな」


「危のうございました」


「すまん」


女中は静かに手を引っ込めた。

以前なら、その温もりだけで胸がいっぱいになっていただろう。


今は違う。

心は少しだけ揺れた。

けれど、その揺れは静かな波紋のように広がるだけで、

激しい波にはならなかった。



 ──夕暮れ。


障子は真っ白に張り替えられ、部屋は見違えるように明るくなっていた。

妻は満足そうに部屋を見渡す。


「新しい年を迎えられそうね」


「はい」


女中も嬉しそうに頷いた。

主人は障子越しに差し込む夕陽を眺める。


「家というものは」


ぽつりと呟く。


「人が手を掛けてやるから、温かくなるんだな」


女中はその言葉を胸へしまった。


家も。

人の心も。

きっと同じなのだろう。


手を掛け、時間を掛け、大切に育てていくものなのだ。


庭では山茶花が咲き始めていた。

冬の花は、寒さの中で静かに美しい。


女中はその花を見つめながら、小さく息をついた。


(この日々が、いつまでも続きますように)


それは恋人を願う祈りではなかった。

三人が穏やかに笑い合える、

この何気ない日常への祈りだった。


けれど運命は、人が穏やかさを願った時ほど、

静かに別の扉を開き始める。

そのことを、まだ誰も知らなかった。

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