第59話 優しさの距離
立冬を過ぎると、朝の空気は目に見えて冷たくなった。
夜明け前の井戸水は指先を刺すようで、
女中は両手を息で温めながら桶を持ち上げた。
吐く息は白く、庭草には薄く霜が降りている。
「もう冬ですね……」
誰へともなく呟く。
季節は静かに移り変わり、人の心を待つことなく歩いてゆく。
──その朝、奥様は女中の様子を見て眉を寄せた。
「あなた、少し顔色が悪いわ」
「いえ、大丈夫でございます」
笑ってみせる。
しかし笑顔には力がなかった。
「昨夜、眠れなかったの?」
図星だった。
女中は少しだけ視線を伏せる。
「少々……考え事を」
「そう」
奥様はそれ以上は聞かなかった。
代わりに、温かい葛湯を茶碗へ注ぐ。
「これを飲みなさい」
「ですが」
「命令です」
その言葉に、女中は苦笑しながら頭を下げた。
「……ありがとうございます」
葛湯は優しい甘さだった。
冷えた身体へ、ゆっくりと温もりが広がっていく。
──昼過ぎ。
主人は書斎で筆を執っていた。
障子の向こうから、かすかな咳が聞こえる。
一度。
少し間を置いて、また一度。
主人は筆を止めた。
「入っておいで」
襖が静かに開く。
女中が茶を運んできたのだった。
「失礼いたします」
盆を置く手が、わずかに震えている。
主人は湯呑へ手を伸ばす前に女中の顔を見た。
「風邪か」
「いえ……そのような」
言い終わらぬうちに、小さく咳き込む。
女中は慌てて口元を押さえた。
「申し訳ございません」
「謝ることではない」
主人は穏やかな声で言った。
「熱はあるのか」
「ありません」
「本当に?」
「はい」
しかし、その頬は少し赤い。
旦那様は静かに立ち上がると、
部屋の隅から羽織を一枚持ってきた。
「これを着ていなさい」
「いえ、そのような大切な物を」
「風邪をこじらせる方が困る」
そう言って、女中へ羽織を差し出した。
女中はしばらく動けなかった。
受け取ってよいものか迷ったのである。
「奥様が知れば」
「妻には私から話す」
女中はようやく両手で羽織を受け取った。
「……ありがとうございます」
その温もりは、着物の温もりなのか。
それとも、持ち主の心なのか。
女中には分からなかった。
夕方になると、妻が女中部屋を訪ねてきた。
「少し休みなさい」
布団を敷き、自ら掛け布団を整える。
「お仕事が」
「今日は私が少し動きます」
「そんな」
「あの人にも頼みました」
女中は驚いて顔を上げた。
「旦那様が?」
「ええ」
妻は笑う。
「あなたが倒れたら、この家は困るもの」
その言葉に胸が熱くなった。
必要とされている。
奉公人として。
家族ではない。
けれど、この屋敷の一員として。
それだけで十分だった。
──夜。
熱は出なかった。
ただ、身体のだるさだけが残る。
女中は昼間借りた羽織を丁寧に畳みながら、
小さく微笑んだ。
まだ微かに白檀の香が残っている。
その香を吸い込んだ瞬間、胸が少しだけ痛んだ。
「いけませんね」
苦笑する。
ほんの少し優しくされるだけで、心が揺れる。
昔と何も変わっていない。
いや。
昔より静かになっただけで、本質は少しも変わっていないのだ。
羽織を両手で抱きしめそうになり、慌てて離す。
「これは、お返ししなくては」
そっと畳の上へ置く。
距離を守る。
それが、この屋敷で生きていくための約束だった。
窓の外では木枯らしが庭木を揺らしている。
その音を聞きながら女中は布団へ入った。
目を閉じる。
旦那様の優しさ。
奥様の優しさ。
二人の温もりに包まれた今日という一日を思い返す。
そして静かに思う。
(私は……幸せです)
その幸せが叶わぬものであっても。
この屋敷で、この人たちに仕えられるだけで、
自分は十分に恵まれている。
そう思えるようになったことが、女中には何よりも嬉しかった。
しかし胸の奥では、まだ誰にも見せない小さな灯火が、
初霜の夜にも消えることなく静かに揺れていた。




