第58話 紅葉の頃
秋は日ごとに深まり、庭の楓は燃えるような紅に染まっていた。
朝露をまとった葉は、陽を受けるたび静かに輝き、
風が吹けば音もなく舞い落ちる。
女中は縁側へ腰を下ろし、
一枚の紅葉を手のひらへ乗せて眺めていた。
「綺麗でしょう?」
背後から奥様の声がした。
「はい」
女中は立ち上がろうとする。
しかし奥様は首を横に振った。
「今日はそのままでいいわ」
そう言って隣へ腰を下ろす。
二人は並んで庭を眺めた。
「葉はね」
奥様が静かに口を開く。
「散るために色づくのではないの」
女中は耳を傾ける。
「最後まで美しく生きようとするから、あんな色になるのよ」
その言葉が胸へ染み込んだ。
苦しみのためではなく、美しく生きるため。
女中は小さく頷いた。
「……はい」
その日から奥様は、
少しずつ女中へ様々なことを教えるようになった。
茶の点て方。
客を迎える際の所作。
季節ごとの花の活け方。
掛け軸の見方。
湯呑の置く向き。
一つひとつは些細なことだった。
しかし、そのどれもが屋敷の品格を支える大切な仕事だった。
「花は正面ばかり見せるものじゃないの」
奥様は白い菊を手に取りながら言う。
「少し横を向かせると、花は息を始めるわ」
女中は何度も活け直す。
真っ直ぐ過ぎる。
傾き過ぎる。
納得がいかず、何度もやり直した。
奥様は決して急かさなかった。
「焦らなくていいの」
その一言だけを繰り返す。
──夕刻。
主人が書斎から出てくる。
床の間には、その日初めて女中が活けた菊が飾られていた。
主人は足を止める。
「これは」
女中の胸が高鳴る。
「……私が」
小さく答える。
主人は花をじっと見つめた。
しばらく黙っていたが、やがて静かに頷いた。
「良い花だ」
文字にすれば、たった四文字。
それだけだった。
けれど女中の胸は大きく震えた。
「ありがとうございます」
深く頭を下げる。
以前なら、その一言だけで夜も眠れぬほど胸を焦がしただろう。
今も嬉しい。
だが、その嬉しさは少しだけ違っていた。
褒められたのは自分ではない。
自分の仕事だった。
そう思えるようになっていた。
──夜。
女中部屋には小さな行灯が灯っていた。
昼間活けた花を思い出す。
主人の「良い花だ」という声が耳に残る。
胸へ手を当てる。
まだ温かい。
けれど苦しくはない。
そう思った、その時だった。
不意に涙が一粒、頬を伝った。
「……あ」
自分でも驚いた。
どうして泣いているのだろう。
悲しいわけではない。
むしろ嬉しかった。
それなのに涙は止まらない。
女中は膝を抱えた。
「私は……」
小さく呟く。
「褒めていただけるだけで……幸せなのですね」
その言葉を口にした瞬間、
自分の恋は終わっていないことを知った。
諦めたつもりだった。
胸へしまったつもりだった。
けれど、本当は少しも消えていない。
ただ形を変えただけだった。
旦那様へ近づきたいという願いは薄れた。
代わりに、その人から認められたいという静かな願いが残っていた。
それは恋より穏やかで、それでも恋と同じくらい深かった。
女中は涙を拭き、小さく笑う。
「明日も……頑張りましょう」
誰へともなく呟く。
窓の外では、秋の虫が静かに鳴いていた。
紅葉は少しずつ散り始めている。
それでも木は枯れたわけではない。
春が来れば、また新しい芽をつける。
人の心も、きっと同じなのだろう。
女中は行灯の火を見つめながら、静かに目を閉じた。
胸の奥の小さな灯は、誰にも見えないまま、
今夜も穏やかに揺れていた。




