百日紅の眠る頃
夏が去ると、屋敷には静かな秋が訪れた。
庭の百日紅は盛りを過ぎ、
風が吹くたびに紅い花弁を一枚、また一枚と落としてゆく。
朝夕はめっきり涼しくなり、縁側を渡る風にも、
どこか乾いた匂いが混じるようになっていた。
女中は庭を掃きながら、季節が変わったことを肌で感じていた。
箒の先で落ち葉を集める。
夏の終わりまでは、胸の内ばかりを見つめていた。
今は違う。
手を動かし、身体を動かし、一日を丁寧に積み重ねる。
それだけで心は少しだけ静かになった。
もっとも、痛みが消えたわけではない。
胸の奥には、まだ小さな火が残っている。
だが、その火を燃え上がらせるのではなく、
静かに抱いて生きることを覚え始めていた。
朝餉の支度を終えた頃、妻が台所を覗いた。
「今日はお庭を掃くの?」
「はい。楓の葉が増えてまいりましたので」
「そう」
奥様は外を眺め、小さく微笑んだ。
「秋は掃いても掃いても落ちてくるわね」
「はい」
「でも、それでいいのよ」
女中は首を傾げた。
妻は庭を見つめたまま続ける。
「落ちる葉があるから、新しい芽が出るの」
その言葉は、落ち葉の話だけではないように聞こえた。
女中は静かに頷いた。
「……はい」
──昼過ぎ。
主人も庭へ出てきた。
袖をまくり、箒を一本手にしている。
「今日は私も手伝おう」
「旦那様まで」
「身体を動かさぬと、本ばかり読んでいると怒られるからな」
その言葉に妻が笑った。
「誰に?」
「もちろんお前にだ」
「私は本当のことしか申しません」
三人の間に穏やかな笑いが広がる。
女中も思わず笑みを漏らした。
その笑顔を見た妻は何も言わず、
小さく頷くだけだった。
庭へ三人の箒の音が重なる。
さらさら、と乾いた葉が集まっていく。
誰も急がない。
誰も無理に話さない。
それでも、不思議なくらい心地よい時間だった。
一仕事を終えると、妻が縁側へ腰を下ろした。
「お茶にしましょう」
女中はすぐに台所へ向かい、温かな番茶を用意する。
湯呑を三つ並べる。
以前なら、夫婦の前へ座ることなど考えられなかった。
けれど妻は自然に言う。
「あなたも」
女中は少し離れた場所へ静かに座った。
番茶の湯気が秋風へ溶けてゆく。
庭では赤と黄色の葉が風に舞っていた。
「静かね」
妻が呟く。
「はい」
女中も庭を見つめる。
主人は湯呑を持ちながら空を仰いだ。
「こういう日が、一番好きだ」
その何気ない一言を聞きながら、
女中は胸の奥が温かくなるのを感じた。
もう、それだけで十分だった。
隣へ寄りたいとは思わない。
手に触れたいとも思わない。
ただ同じ景色を見られるだけで幸せだった。
──夕暮れ。
仕事を終えた女中は一人、庭へ出た。
昼間掃いたばかりなのに、
また数枚の落ち葉が地面へ降りている。
女中はその一枚を拾い上げた。
赤く色づいた楓の葉。
夏なら青々としていた葉が、
こうして色を変え、やがて土へ還る。
人の心も同じなのかもしれない。
激しく燃える季節があり、静かに色づく季節がある。
そのどちらも、生きるということなのだろう。
女中は葉を掌へ乗せたまま、小さく微笑んだ。
風が頬を撫でる。
その風は、もう夏の熱を運んではこなかった。
胸の奥で眠る小さな火も、
今は穏やかに揺れているだけだった。
(終わったのではない)
女中は静かに空を見上げる。
(静かに眠っているだけ)
夕焼けに染まる空の下、秋風だけが優しく庭を渡っていた。




