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家の内側、女中の気配が変わるころ  作者: てきてき@tekiteki


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第56話 秋風の半歩

 その日以来、女中は旦那様と二人きりになることを、

ことさら避けるようになった。


避けているというより、自ら距離を量るようになった、

と言った方が近い。


廊下ですれ違えば一礼をし、必要なことだけを静かに伝える。

茶を運ぶ時も、以前より半歩だけ遠くへ膝をつく。

その半歩は、誰にも気づかれないほどわずかなものだった。


けれど女中にとっては、越えてはならない境を守るための半歩だった。


主人も、その変化に気づいていた。

だが何も言わない。

言えば、その半歩がまた縮まってしまう気がしたからである。




 秋の気配が、朝夕の風へ少しずつ混じり始めた。

庭の虫の声も、いつしか蝉から鈴虫へと変わっている。


女中は縁側を拭きながら、小さく深呼吸をした。

風が心地よい。


あれほど胸を焼いていた熱も、

季節の移ろいとともに少しだけ静まってきたように思える。


その時、妻が庭へ降りてきた。


「気持ちのいい風ね」


「はい」


二人は並んで庭を眺める。

しばらく沈黙が続いたあと、妻がぽつりと言った。


「人はね」


女中は手を止める。


「心の中で泣けるようになると、

大人になるのかもしれないわ」


女中は静かに耳を傾けた。


「若いうちは、嬉しいことも悲しいことも全部外へ溢れてしまう。

でも、そのうち、自分の胸へしまえるようになるの」


妻は空を見上げる。


「しまったからといって、忘れたわけではないのだけれど」


その横顔は穏やかだった。

女中はゆっくりとうなずく。


「……私にも、できますでしょうか」


「できるわ」


妻は迷いなく答えた。


「あなたは弱い子じゃないもの」


女中は目を伏せた。


弱くない。

その言葉が嬉しかった。


泣いてばかりいた自分を、奥様はそう見ていなかったのだ。


「ありがとうございます」


自然と笑みが浮かぶ。

妻もまた、優しく笑い返した。



 その日の夕暮れ。


書斎では旦那様が静かに本を閉じていた。

窓の外では赤く染まった空が、

ゆっくりと群青へ変わっていく。


廊下を歩く足音が聞こえた。

女中である。


以前なら、その気配だけで胸がざわついた。

だが今日は違った。

障子の向こうで立ち止まる気配。


「失礼いたします」


落ち着いた声だった。


「お茶でございます」


「ああ」


湯呑が静かに置かれる。


女中は一礼すると、

それ以上留まることなく静かに部屋を出ていこうとした。


その背中を見送りながら、

主人はふと口を開く。


「ありがとう」


ただ、その一言だけだった。


女中は足を止める。

振り返らず、小さく頭を下げる。


「……もったいない、お言葉でございます」


そう答える声には、もう震えはなかった。

そして、襖が静かに閉まる。


主人は一人になった書斎で、小さく微笑む。


あの娘は歩き始めた。

まだ胸に傷を抱えたまま、

それでも自分の足で前へ進もうとしている。


それでいい。

それが一番いい。


夕暮れの光が書斎から消え、

行灯の灯だけが静かに部屋を照らしていた。

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