第55話 抱えたまま歩く
その穏やかな午後を境に、
女中は少しずつ笑顔を取り戻し始めた。
以前のように心から笑えるわけではない。
それでも奥様の前では微笑み、
主人の前では奉公人として静かに頭を下げる。
そうして日々を重ねるうちに、
屋敷には再び穏やかな時間が流れ始めた。
しかし、それは傷が癒えたということではなかった。
痛みを隠す術を覚えただけである。
ある夕暮れのことだった。
西日が廊下を赤く染め、障子には庭木の影が揺れている。
女中は洗濯物を取り込みながら、縁側で一人庭を眺めていた。
百日紅の花は、あの日より少しだけ色を失い始めている。
夏も終わりへ向かっていた。
「ここにいたか」
背後から穏やかな声がした。
振り返ると、主人が立っていた。
「……旦那様」
女中は慌てて立ち上がる。
「申し訳ございません。少し休んでしまいまして」
「いや」
主人は首を横に振った。
「私も風に当たりたくなっただけだ」
二人は並んで庭を見る。
以前なら、その沈黙だけで胸が苦しくなっていた。
今は違う。
苦しさはある。
だが、その苦しさを受け入れるだけの静けさも生まれていた。
「火傷は」
主人が庭を見たまま尋ねる。
「もう跡もございません」
女中は右手を見つめ、小さく微笑んだ。
「綺麗に治りました」
「そうか」
主人も頷く。
「それは良かった」
再び沈黙が訪れる。
蝉の声はいつの間にか減り、
代わりに蜩が鳴き始めていた。
季節がゆっくりと移り変わっていく。
女中はその音へ耳を澄ませながら、小さく口を開いた。
「旦那様」
「ん?」
「私……」
一度言葉が止まる。
以前なら、「離れたくありません」と口にしていただろう。
だが今は違った。
「ちゃんと、お仕事を頑張ります」
主人は静かに女中を見る。
その瞳には、以前のような熱ではなく、
どこか覚悟にも似た穏やかさが宿っていた。
「そうか」
それだけ答えた。
余計なことは言わない。
その一言だけで十分だった。
女中は深く頭を下げる。
「ご心配をお掛けいたしました」
主人は少しだけ笑う。
「心配くらいは、させてくれ」
その言葉に、女中も小さく笑った。
「……はい」
短い返事だった。
けれど、その返事には以前のような縋りつく響きはなかった。
主人は庭へ視線を戻す。
「人というものはな」
ゆっくりと言葉を続ける。
「時には、どうにもならん思いを抱えることもある」
女中は黙って聞いている。
「だが、それを抱えたまま歩いていくことも、
大人になるということなんだろう」
風が二人の間を通り過ぎた。
女中は静かに目を閉じる。
胸の熱は消えていない。
きっと、すぐには消えないだろう。
それでも、この熱と共に生きていくしかない。
そう思えるようになっていた。
庭では、一枚の百日紅の花びらが枝を離れた。
風に乗り、ゆっくりと地面へ落ちていく。
女中はその花びらを見送りながら、小さく微笑んだ。
それは恋が終わった笑顔ではない。
恋を抱えたまま、それでも前を向こうと決めた人の、
静かな微笑みだった。




