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家の内側、女中の気配が変わるころ  作者: てきてき@tekiteki


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第53話 百日紅の揺れる朝

その夜、女中は眠ることができなかった。


障子の向こうでは、風が竹を揺らしている。

虫の音が、静かな夜を満たしていた。


布団へ入っても目は冴えたまま、

何度寝返りを打っても胸のざわめきは収まらない。


奥様の言葉が、何度も思い返された。


「恋はね、幸せになるためにするものよ」


幸せ。


その言葉だけが胸へ残る。


自分はいま幸せなのだろうか。

旦那様の姿を見るだけで胸は温かくなる。

声を掛けられるだけで嬉しくなる。


それなのに、夜になると苦しくて眠れない。

これが本当に恋なのだろうか。


それとも奥様の言うように、

ただ執着しているだけなのだろうか。


女中は布団の上で目を閉じた。

けれど浮かぶのは、あの日のことばかりだった。


火傷を冷やしてくれた手。

背負われた帰り道。

涙を流した自分を慰めるように頬へ触れた、

あの儚い口づけ。


忘れようとするほど鮮明になる。


「……忘れなくては」


誰へともなく呟く。

返事はない。


夜だけが静かに更けていった。




 ──翌朝。


旦那様はいつものように庭を眺めながら新聞を読んでいた。


文字は目に入る。

だが内容は頭へ入ってこない。

女中の泣き顔が離れなかった。


あの時、自分は正しかったのだろうか。

慰めるためとはいえ、

頬へ口づけなどするべきではなかった。


もっと厳しく突き放すべきだったのではないか。

そう思うたび、胸の奥が重くなる。


「あなた」


妻の声に顔を上げる。


「今日はずいぶん静かね」


「そうか?」


「ええ」


妻は湯呑を口へ運びながら微笑んだ。


「何か考え事?」


「少しな」


主人は苦笑する。


「年を取ると、考え事ばかり増える」


「それは若い頃も同じだったでしょう?」


妻は楽しそうに笑う。


その笑顔を見ながら、

主人は胸の奥で小さく詫びた。


(……すまん)


言葉にはしない。

言えるはずもない。


妻はそんな主人を横目で見つめていた。


何も聞かない。

何も問い詰めない。


ただ一つだけ、静かに確信していた。

あの二人は、自分たち以上に苦しんでいる。

だからこそ、自分が感情のまま責め立ててしまえば、

すべてが壊れる。


妻は湯呑を静かに置いた。


「ねえ」


「ん?」


「今日はお天気がいいわ」


「ああ」


「あとで三人で、お庭のお茶にしましょうか」


主人は少し意外そうな顔をした。


「三人で?」


「ええ」


妻は穏やかに笑う。


「たまには、そういう日があってもいいでしょう?」


その笑顔の奥にある本当の思いを、

主人は読み取ることができなかった。


しかし妻だけは知っていた。


壊れかけた心は、隠せば隠すほど歪んでいく。

ならば、自分がその場へいることで、

この家をもう一度「日常」へ戻してやろう。


それが、この家の女主人である自分の務めなのだと。


庭では夏の陽射しを浴びた百日紅が、静かに花を揺らしていた。

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