優しさという罰
その日から、屋敷には奇妙な静けさが流れるようになった。
誰も何も口にしない。
奥様は変わらぬ笑顔で過ごし、
旦那様は以前と同じように書を読み、
女中もまた奉公人として黙々と働く。
何一つ変わっていない。
外から見れば、そう映るだろう。
けれど三人の胸の内だけは、少しずつ違う方向へ流され始めていた。
──数日後の午後。
妻は縁側で団扇をゆっくりと動かしていた。
庭では百日紅が鮮やかに咲き、夏の陽射しを受けて紅く揺れている。
女中は冷えた麦茶を盆へ載せ、静かに縁側へ運んだ。
「奥様、お茶でございます」
「ありがとう」
奥様は笑顔で湯呑を受け取る。
その笑顔を見た瞬間、女中の胸は小さく痛んだ。
この人を裏切ってしまった。
その思いだけは消えない。
「どうしたの?」
奥様が不意に尋ねる。
「少し痩せたんじゃない?」
「……そのようなことは」
「ご飯、ちゃんと食べてる?」
女中は曖昧に微笑んだ。
「はい」
嘘だった。
ここ数日、食事の味が分からない。
夜も眠れず、朝が来るのを待つだけの日が続いていた。
妻は団扇を止める。
女中の顔をじっと見つめた。
「ねえ」
「……はい」
「恋をすると、人は綺麗になるって言うでしょう?」
その言葉に、女中の肩がぴくりと震えた。
湯呑がかすかに鳴る。
「ですが、中には反対もいるの」
奥様は庭を眺めたまま続ける。
「思い詰めて、自分を苦しめてしまう人」
女中は何も答えられない。
返事をすれば、声が震えてしまいそうだった。
「恋はね」
妻の声はどこまでも穏やかだった。
「幸せになるためにするものよ」
女中は唇を強く噛む。
『幸せ』
その言葉が胸へ刺さる。
自分はいま幸せなのだろうか。
旦那様へ思いを寄せるたび、苦しくなる。
顔を見るだけで胸が締めつけられる。
それでも離れられない。
これが幸せなのだろうか。
妻は女中を見ずに言った。
「苦しいだけなら、それは恋ではなく執着かもしれないわ」
その一言に、女中は思わず顔を上げる。
妻は変わらぬ微笑みを浮かべていた。
まるで独り言のように。
しかし、その言葉は真っ直ぐ女中へ届いていた。
「……奥様」
小さく呼ぶ。
妻はようやく振り返り、優しく笑った。
「あなたは優しい子だから」
そして何かを思い出すように、目を伏せる。
「自分を責め過ぎるの」
女中の瞳へ涙が滲む。
どうしてこの人は、こんなにも優しいのだろう。
責められた方がどれほど楽だったか。
妻は立ち上がり、女中の肩へそっと手を置いた。
「焦らなくていいの」
その声には母親のような温もりがあった。
「人の心は、自分でも思うようにならないものだから」
女中は小さく頷くことしかできなかった。
けれど胸の奥では、別の思いが静かに芽生えていた。
主人の優しさ。
妻の優しさ。
二人とも、自分を傷つけまいとしてくれている。
その優しさこそが、今の自分には何よりも残酷だった。
縁側を一陣の風が吹き抜ける。
風鈴が、ちりん、と一度だけ澄んだ音を響かせた。
その音は短く、美しく、そしてあまりにも儚かった。




