表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
家の内側、女中の気配が変わるころ  作者: てきてき@tekiteki


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
52/70

優しさという罰

その日から、屋敷には奇妙な静けさが流れるようになった。


誰も何も口にしない。

奥様は変わらぬ笑顔で過ごし、

旦那様は以前と同じように書を読み、

女中もまた奉公人として黙々と働く。


何一つ変わっていない。

外から見れば、そう映るだろう。

けれど三人の胸の内だけは、少しずつ違う方向へ流され始めていた。



 ──数日後の午後。


妻は縁側で団扇をゆっくりと動かしていた。

庭では百日紅が鮮やかに咲き、夏の陽射しを受けて紅く揺れている。


女中は冷えた麦茶を盆へ載せ、静かに縁側へ運んだ。


「奥様、お茶でございます」


「ありがとう」


奥様は笑顔で湯呑を受け取る。

その笑顔を見た瞬間、女中の胸は小さく痛んだ。


この人を裏切ってしまった。

その思いだけは消えない。


「どうしたの?」


奥様が不意に尋ねる。


「少し痩せたんじゃない?」


「……そのようなことは」


「ご飯、ちゃんと食べてる?」


女中は曖昧に微笑んだ。


「はい」


嘘だった。


ここ数日、食事の味が分からない。

夜も眠れず、朝が来るのを待つだけの日が続いていた。


妻は団扇を止める。

女中の顔をじっと見つめた。


「ねえ」


「……はい」


「恋をすると、人は綺麗になるって言うでしょう?」


その言葉に、女中の肩がぴくりと震えた。

湯呑がかすかに鳴る。


「ですが、中には反対もいるの」


奥様は庭を眺めたまま続ける。


「思い詰めて、自分を苦しめてしまう人」


女中は何も答えられない。

返事をすれば、声が震えてしまいそうだった。


「恋はね」


妻の声はどこまでも穏やかだった。


「幸せになるためにするものよ」


女中は唇を強く噛む。


『幸せ』


その言葉が胸へ刺さる。


自分はいま幸せなのだろうか。

旦那様へ思いを寄せるたび、苦しくなる。

顔を見るだけで胸が締めつけられる。


それでも離れられない。

これが幸せなのだろうか。


妻は女中を見ずに言った。


「苦しいだけなら、それは恋ではなく執着かもしれないわ」


その一言に、女中は思わず顔を上げる。

妻は変わらぬ微笑みを浮かべていた。


まるで独り言のように。

しかし、その言葉は真っ直ぐ女中へ届いていた。


「……奥様」


小さく呼ぶ。

妻はようやく振り返り、優しく笑った。


「あなたは優しい子だから」


そして何かを思い出すように、目を伏せる。


「自分を責め過ぎるの」


女中の瞳へ涙が滲む。

どうしてこの人は、こんなにも優しいのだろう。


責められた方がどれほど楽だったか。

妻は立ち上がり、女中の肩へそっと手を置いた。


「焦らなくていいの」


その声には母親のような温もりがあった。


「人の心は、自分でも思うようにならないものだから」


女中は小さく頷くことしかできなかった。

けれど胸の奥では、別の思いが静かに芽生えていた。


主人の優しさ。

妻の優しさ。


二人とも、自分を傷つけまいとしてくれている。


その優しさこそが、今の自分には何よりも残酷だった。


縁側を一陣の風が吹き抜ける。

風鈴が、ちりん、と一度だけ澄んだ音を響かせた。


その音は短く、美しく、そしてあまりにも儚かった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ