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家の内側、女中の気配が変わるころ  作者: てきてき@tekiteki


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治らぬ熱

書斎を出た旦那様は、

廊下へ足を踏み出したところで歩みを止めた。


襖一枚を隔てた向こうには、まだ女中がいる。


泣いているのだろう。

その姿が目に浮かぶ。

旦那様は静かに目を閉じた。


(……すまんな)


誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。


女中へか。

それとも妻へか。

あるいは、自分自身へか。


胸の奥に残る重苦しさだけは、消えなかった。



 部屋に残された女中は、しばらく身動き一つできなかった。


指先で頬へ触れる。

そこには何も残っていない。


それでも、その場所だけが熱を帯びているようだった。


優しかった。

あまりにも優しすぎた。

だから苦しい。

拒まれる方が、どれほど楽だっただろう。


厳しく叱られ、暇を言い渡されれば、

この恋もそこで終わったかもしれない。

しかし主人は、そうしなかった。


涙を拭うように頬へ触れ、慰めるような口づけを残した。


あれは恋ではない。

慰めだった。

情けだった。

きっと、それだけなのだ。


そう自分へ言い聞かせても、胸は納得しなかった。


「……旦那様」


小さく名前を呼んでみる。

もちろん返事はない。

静まり返った部屋に、自分の声だけが消えていく。


女中はゆっくり立ち上がると、鏡台の前へ座った。

鏡に映る自分の顔は、涙でひどく乱れている。


瞼は赤く腫れ、髪も少し乱れていた。


「悪い子……」


旦那様の言葉を思い出す。

叱るでもなく、突き放すでもなく。

まるで幼い娘を諭すような優しい声。


女中は鏡の中の自分へ問い掛ける。


「私は……悪い子です」


その言葉を口にすると、不思議と涙は止まっていた。

代わりに胸へ残ったのは、静かな痛みだった。



 ──翌朝。


何事もなかったように一日が始まる。

庭では蝉が鳴き、台所では味噌汁の香りが立ちのぼる。


女中はいつもより早く起き、黙々と朝の支度をしていた。


昨日のことは夢だった。

そう思い込もうとしていた。


茶を淹れ、膳を整え、廊下を歩く。

奉公人としての身体は、いつも通り動いてくれる。


けれど心だけは、少しも昨日から進めなかった。


朝餉の支度が整い、座敷へ膳を運ぶ。

主人はいつもの席に座り、新聞へ目を通していた。


女中は静かに膳を置く。


「朝餉でございます」


「ああ」


その返事も、いつも通りだった。

昨夜の出来事など最初から存在しなかったかのように。


女中は胸の奥が少し痛むのを感じた。

これでいい。

主人は主人でいなければならない。

昨夜のことを引きずっているのは、自分だけなのだ。


そう思いながら下がろうとした時だった。


「……手はどうだ」


新聞から目を離さないまま、旦那様が静かに尋ねた。

女中は立ち止まる。

火傷をした右手へ視線を落とした。


「……もう、大丈夫でございます」


「そうか」


たったそれだけの会話。

それだけなのに、女中の胸はまた温かくなる。


昨日の出来事を忘れたわけではない。

忘れようとしているわけでもない。

それでも主人は、まず火傷の具合を気遣ってくれた。

その優しさが、何よりも苦しかった。


女中は深く一礼すると、静かに座敷を出た。

廊下へ出た途端、誰にも聞こえないほど小さく呟く。


「……治りませんね」


それは火傷のことではなかった。


胸の奥に残った熱のことを言っているのだと、

自分自身が一番よく分かっていた。

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