第50話 頬に残る熱
女中は畳へ額をつけたまま、震え続けていた。
「申し訳ございません……」
声は涙で掠れ、言葉にならない。
謝っても、謝っても足りない。
越えてはならない一線を、
自分は越えようとしてしまった。
主人の頬へ手を伸ばし、その先まで望んでしまった。
奉公人として。
一人の人間として。
決して許されることではない。
涙が畳へ染みを作っていく。
部屋には、その小さな嗚咽だけが響いていた。
主人はしばらく立ち尽くしていた。
叱るべきか。
厳しく言い聞かせるべきか。
それとも、このまま部屋を出るべきか。
どれも違うような気がした。
ゆっくりと膝を折り、女中の傍らへ腰を下ろす。
そして、おそるおそる手を伸ばした。
細く震える背中へ、そっと掌を添える。
驚くほど軽い肩だった。
指先へ力は込めない。
ただ、幼い子をあやすように静かに背をさする。
「ほーら……」
穏やかな声が降りてくる。
「良いんだよ」
その一言だけで、女中の肩がびくりと震えた。
叱られると思っていた。
軽蔑されると思っていた。
それなのに返ってきたのは、責める言葉ではなかった。
「若いというのはな」
旦那様は背をさすりながら続ける。
「そういうものだ」
女中は首を振る。
「……申し訳ございません」
震える声で、それしか言えない。
旦那様は小さく笑う。
どこか寂しげな笑みだった。
「私もなぁ……」
言葉がそこで止まる。
少し遠くを見るような目になる。
「もう少し若かったら」
静かに息を吐く。
「どうなっていたか……分からん」
その独り言のような呟きは、女中の胸をさらに締めつけた。
優しさだった。
拒絶でも、受け入れでもない。
相手を傷つけまいとする、大人の優しさ。
だからこそ苦しい。
「申し訳ございません……」
女中は何度も繰り返す。
「申し訳ございません……」
旦那様は困ったように頭を掻き、小さく笑った。
「しょうがないな」
その声は、
父親が幼い娘へ向けるような穏やかさを帯びていた。
背へ添えていた手を肩へ移し、
ゆっくりと身体を起こさせる。
「ほら」
女中は逆らえず、涙で濡れた顔を少しずつ上げた。
目元は赤く腫れ、頬には涙の跡が幾筋も残っている。
旦那様はその顔を見つめ、
何か言おうとして言葉を飲み込んだ。
静かな沈黙が流れる。
やがて、誰に聞かせるでもないほど小さな声で、
妻の名をぽつりと呼んだ。
それは懺悔にも、自分への戒めにも聞こえた。
次の瞬間。
旦那様は女中の頬へ顔を寄せる。
そして、触れるか触れないかほどの、
ごく軽い口づけを頬へ残した。
慰めるように。
泣き止ませるように。
それ以上の意味を持たせまいとするほど、
儚い一瞬だった。
女中は目を大きく見開く。
身体が動かない。
涙さえ止まってしまった。
主人は何事もなかったように静かに身を離すと、
照れ隠しのように笑った。
「よく顔を洗っておけよ」
女中は瞬きもできない。
旦那様は自分の頬を指で軽く叩きながら続けた。
「脂が移るぞ」
冗談めかした口調だった。
それだけ言うと静かに立ち上がり、
振り返ることなく書斎を出ていく。
襖が閉まる音だけが、部屋へ静かに残った。
女中はその場に座ったまま、そっと自分の頬へ触れる。
そこにはもう何も残っていないはずだった。
それでも、その場所だけが熱を帯びているように感じられた。
(今のは……)
拒まれたのだろうか。
それとも。
与えられたのだろうか。
答えは見つからない。
ただ一つだけ確かなことがあった。
手の火傷から始まった熱は、まだ少しも冷めてはいなかった。




