思いとどまる手
女中は主人の顔を見つめたまま、息をすることも忘れていた。
歳を重ねた人の顔だった。
目尻には細かな皺が刻まれ、
日に焼けた肌には年月の跡が残っている。
本人は「どうしようもない顔だ」と笑った。
だが、女中の目には違って映っていた。
長い年月を誠実に生きてきた人だけが持つ穏やかさ。
誰かを怒鳴りつけることもなく、
人を見下すこともなく、
静かに屋敷を支えてきた人の顔。
それが、どうしようもなく美しかった。
「……とても素敵です」
思わず漏れた言葉だった。
飾ろうとしたわけではない。
慰めようとしたわけでもない。
胸の奥にある思いが、
そのまま唇から零れ落ちただけだった。
主人は返す言葉を失った。
冗談で終わると思っていた。
照れ笑いをされ、
「そんなことはございません」と、
返されるだけだと思っていた。
だが、女中の瞳には一点の曇りもなかった。
真っ直ぐに自分だけを見つめている。
その視線に耐えきれず、
主人は困ったように笑う。
「男というものはな」
自分の頬を軽く指でなぞる。
「歳を取ると脂っ気ばかり増えて、
あまり見栄えのいいものじゃない」
女中は首を横へ振る。
何も聞こえていないかのようだった。
その瞳は少しずつ下へ落ちていく。
額から目元へ。
鼻筋へ。
そして――唇へ。
女中自身も、その視線の意味に気づいていた。
(いけない)
心の中で何度も叫ぶ。
目を逸らさなければならない。
離れなければならない。
それなのに身体は動かなかった。
まるで夢の中を歩いているように、一歩だけ前へ出る。
主人も、その変化に気づいていた。
呼吸が近づく。
女中の頬が赤く染まり、小さく震えている。
(止めなければならない)
その思いが胸をよぎる。
しかし、その一瞬のためらいが、女中の手を動かした。
細い指先が、そっと主人の頬へ触れる。
驚くほど温かかった。
女中は小さく息を呑む。
まるで確かめるように、
その温もりを指先で感じていた。
主人は動かなかった。
その手を払いのけることもせず、
ただ静かに見つめ返している。
「……脂っ気など」
女中は小さく首を振る。
「少しも気になりません」
囁くような声だった。
視線は再び唇へ落ちる。
あと少し。
あと一歩近づけば届いてしまう距離だった。
女中の身体が、吸い寄せられるように前へ傾く。
その瞬間だった。
旦那様は静かに両手を上げると、
女中の頬をそっと包み込んだ。
力は少しも入っていない。
子どものいたずらを優しく止めるような手つきだった。
「こら」
穏やかな声が響く。
「飛んだ、わがままさんだな」
その一言で、女中は我に返った。
自分が何をしようとしていたのか。
何を望んでしまったのか。
そのすべてが一度に胸へ押し寄せる。
「……あ」
目が大きく見開かれた。
頬を包む旦那様の手は、
責めるためではなく、
静かに思いとどまらせるためのものだった。
女中の瞳に涙が滲む。
一粒、また一粒と頬を伝い、畳へ落ちていった。
「申し訳……ございません……」
かすれた声が震える。
女中は一歩退き、その場へ崩れるように膝をついた。
額が畳へ触れるほど深く頭を下げる。
「申し訳ございません……」
震える肩が止まらない。
何度も同じ言葉を繰り返しながら、
女中は顔を上げることができなかった。
主人は、その姿を見つめたまま立ち尽くしていた。
叱るべきなのか。
慰めるべきなのか。
どちらも違うように思えた。
ただ一つだけ確かなことは、
この娘はもう、
自分一人では抱えきれないほど深く苦しんでいるということだった。




