第48話 離せぬ手
女中は俯いたまま、小さく息を吸った。
言葉では分かっている。
主人の言うことは、何一つ間違ってはいない。
主人には奥様がいる。
自分は奉公人にすぎない。
この思いを抱き続ければ、苦しむのは自分だけだ。
それでも……。
「……それでも」
思わず漏れた声は、その先を続けることができなかった。
旦那様は黙って女中を見つめている。
その眼差しには怒りも軽蔑もなかった。
だからこそ、余計に苦しかった。
女中は震える指先で、旦那様の着物をそっと握る。
ほんの少しだけ。
子どもが親の袖をつかむような、頼りない力だった。
(終わりたくない)
もし今、この腕を離してしまえば。
今まで築いてきたものも、胸に芽生えた思いも、すべてが終わってしまう気がした。
旦那様もまた、その細い指へ視線を落とす。
(離させなければならない)
理性はそう告げる。
今ならまだ間に合う。
ここで線を引けば、この娘はいつか今日を思い出として乗り越えられる。
そう信じたい。
だが、指先は動かなかった。
泣きそうな顔で自分を見上げる娘を前にして、強く振り払うことだけはできなかった。
部屋には二人の呼吸だけが重なる。
夏の夜はひどく静かで、遠くから虫の音が微かに届いてくる。
やがて主人は口を開いた。
「……お前は」
その先を続けようとして、言葉を飲み込む。
女中は息を詰めた。
叱られるのだろうか。
暇を出されるのだろうか。
それとも――。
どの言葉も続かなかった。
主人は静かに首を振る。
「……今日は、もう休め」
穏やかな声だった。
その一言には責める響きも、拒絶の冷たさもなかった。
だからこそ女中には、その意味が分からなかった。
(拒まれたのだろうか)
それとも。
(守られたのだろうか)
答えは見つからない。
女中はゆっくりとうなずく。
「……はい」
そう返事をしても、腕はまだ首元へ回ったままだった。
主人は困ったように笑う。
「……離せ」
今度は少しだけ強い口調だった。
しかし、その声にも怒気はない。
女中は目を閉じる。
指先へ力を込めたまま、ほんの少しだけ首を横に振った。
あと少しだけ。
もう少しだけ、この温もりを失いたくなかった。
だが、それは許される願いではない。
震える息を吐きながら、女中は少しずつ腕の力を抜いていく。
完全には離れない。
けれど、その力は確かに弱くなっていた。
主人は深く息をついた。
「……困った子だ」
その言葉には、呆れと優しさが入り交じっていた。
そして、少し考えるように黙り込む。
やがて穏やかな声で言う。
「……わかった」
女中が顔を上げる。
「よく、お前の顔を見せておくれ」
女中は慌てて俯いた。
「……恥ずかしいです」
「恥ずかしいのに、大胆なことを言う」
主人は苦笑した。
女中は小さく肩をすくめる。
「……申し訳ございません」
「ほら」
子どもを諭すような口調で、旦那様は静かに促した。
「降りろ」
その一言には逆らえなかった。
女中はゆっくりと腕をほどく。
名残を惜しむように指先が着物を離れ、足が畳へ着いた。
主人も静かに向き直る。
二人は初めて真正面から向かい合った。
互いの息遣いが届くほど近い距離。
女中は思わず息を呑む。
旦那様は照れ隠しのように笑い、自分の頬へ軽く触れた。
「……どうだ、この顔」
少し冗談めかした口調で続ける。
「皺も増えたし、目元も少したるんできた。どうしようもない顔だろう」
女中はゆっくりと首を横へ振る。
「……いいえ」
ようやく顔を上げた瞳には、涙の跡が残っていた。
「とても……素敵です」
その一言は飾り気がなく、ただ真っ直ぐだった。
旦那様は返す言葉を失い、静かに女中を見つめ返した。




