第47話 もう少しだけ
女中部屋へ着くまでの道のりは、決して長くはなかった。
それでも女中には、ひどく長い時間のように思えた。
旦那様が足を止め、静かに腰を落とす。
「……ほら、着いたぞ」
背中越しの声は、いつもと変わらず穏やかだった。
女中は返事をしようとした。
しかし喉の奥で言葉が詰まり、声にならない。
旦那様は身体を少し前へ傾ける。
「降りられるか」
その問いにも答えられなかった。
腕が動かない。
いや、動かせない。
首へ回した両腕は、そのまま小さく力を込めていた。
「……おい」
主人は少しだけ声を低くする。
「離せ」
それでも女中は動かなかった。
頬をそっと背へ預ける。
布越しに伝わる体温が、熱を失いかけた心へ静かに沁み込んでいく。
(離したくない)
その思いだけが胸いっぱいに広がる。
もう少しだけ。
あと少しだけ、この温もりの中にいたい。
「……どうした」
旦那様は問い掛ける。
責めるような口調ではなかった。
ただ、本当に理由が分からないという声だった。
女中は小さく首を振る。
言葉にすれば終わってしまう。
だから黙ったまま、腕へわずかに力を込める。
主人は静かに息をついた。
(これは、まずい)
そう思う。
ここで甘やかせば、この娘はもっと苦しむ。
分かっている。
それでも、震える肩を無理に引き離すことはできなかった。
やがて女中の唇が、かすかに動く。
「……いやです」
聞き取れるかどうかというほど小さな声だった。
部屋の空気が静まり返る。
主人は目を閉じ、ゆっくりと言う。
「……もう少しだけか」
女中は答えない。
答えられない。
沈黙そのものが返事だった。
主人は再び息を吐く。
「……分かった」
その声はどこか諦めにも似ていた。
「少しだけだ」
その言葉を聞いた瞬間、女中の肩から力が抜ける。
許された。
その事実だけで、張り詰めていた心が崩れそうになる。
けれど腕だけは離れない。
主人も急がせることはせず、そのまま静かに時が過ぎるのを待っていた。
やがて話題を変えるように口を開く。
「さて……そこへ座っていろ」
畳を示しながら微笑む。
「ここまでしていただいて……」
女中はようやく声を絞り出した。
「私は……幸せです」
その一言は、主人の胸にも静かに落ちた。
幸せ。
ただ背負われただけで、その言葉が出る。
それほどまでに、この娘は思い詰めていたのか。
主人は困ったように笑う。
「おいおい、どうした」
女中は目を閉じる。
「……私は、幸せ者です」
その言葉を口にした途端、自分でも怖くなった。
こんな些細なことで満たされてしまう心が。
これほどまでに主人へ寄り掛かってしまう自分が。
主人はしばらく黙っていた。
やがて、子どもを諭すような穏やかな声で言う。
「若いうちはな」
「……」
「そういう迷いもあるもんだ」
女中は首を横に振る。
「……嫌です」
思わず口をついて出た言葉だった。
主人は苦笑する。
「いつの間に、そんなにわがままになった」
女中は目を伏せる。
「……わがままですね」
その声は震えていた。
「……分かっております」
一度息を整え、小さく続ける。
「でも……ここへ来て初めて……申してみました」
主人は静かに頷く。
「……悪い子だな、お前は」
その言葉は叱責ではなく、どこまでも優しかった。
女中は胸が締めつけられる。
「……悪い子になってしまい、申し訳ありません」
それでも腕は完全には離れなかった。
主人は遠くを見るように目を細める。
「大人になっていくうちに、また色々あるだろう」
ゆっくりと言葉を選ぶ。
「こんな所で、それも妻帯者に心を奪われている暇はないぞ」
一つ一つの言葉は穏やかだった。
だからこそ、女中の胸へ深く染み込んでいく。
正しい。
その通りだ。
何一つ間違ってはいない。
それでも、その正しさだけでは、この熱を消すことはできなかった。




