第46話 背中のぬくもり
それから二、三日ほどが過ぎた。
夏の暑さは少しも衰えず、屋敷の廊下には重たい空気が漂っていた。
昼過ぎのことだった。
女中は洗い上げた布を抱え、廊下を歩いていた。
視界が、ふいに揺れる。
「あっ……」
壁へ手をついた。
足元から力が抜けていく。
胸が苦しい。
息が浅い。
眠れていないせいか、それとも心の疲れなのか、自分でも分からなかった。
「ん?」
向こうから歩いてきた主人が足を止める。
「どうした」
「……少し、立ちくらみが」
女中は無理に笑おうとした。
「大丈夫でございます」
だが、その笑みには力がなかった。
旦那様は女中の前まで来ると、その顔を静かに覗き込む。
「……熱いな」
額へ手を当てることはしない。
ただ頬の赤みと浅い呼吸だけで、それを悟った。
「顔色が悪い」
「少し疲れているだけでございます」
「大丈夫な顔ではない」
その一言に、女中は何も返せなくなった。
言い返そうにも、身体が言うことをきかない。
主人は小さく息を吐く。
「……分かった」
何かを決めたような声だった。
「考え過ぎても、しょうがない」
女中は目を伏せる。
考え過ぎている。
その通りだった。
考えない日は、一日もなかった。
主人は女中へ背を向ける。
そして静かに腰を落とした。
「ほら」
振り返らないまま言う。
「これなら顔も見えん」
女中は意味が分からず立ち尽くした。
「恥ずかしくなかろう」
その言葉でようやく気づく。
背負うつもりなのだ。
「……え」
女中は慌てて首を振る。
「そんな……出来ません」
主人の背に乗るなど。
考えたこともない。
「そうか」
旦那様は無理強いすることなく立ち上がろうとした。
その姿を見た瞬間だった。
「……いえ」
女中の口から、思わず声が漏れる。
主人が振り返る。
「……はい」
自分でも驚くほど小さな返事だった。
(逃げればいい)
そう思う。
(離れればいい)
それが正しい。
それなのに足は動かなかった。
女中はゆっくりと旦那様へ近づく。
震える手が、そっと背中へ伸びた。
布越しに伝わる体温。
その瞬間、指先が震えた。
(どうして……)
抗えない。
主人は何も言わず、静かに待っていた。
女中は覚悟を決めるように目を閉じる。
「……失礼いたします」
小さく呟き、その背へ身を預けた。
腕を首へ回す。
身体が密着する。
布越しであるはずなのに、体温がはっきりと伝わってくる。
(近い……)
あまりにも近い。
旦那様の背中は思っていたより広く、しっかりとしていた。
女中は思わず息を呑む。
耳元には主人の呼吸。
目の前には首筋。
わずかに漂う白檀の香。
その全てが、自分の感覚を狂わせていく。
(近すぎる)
身体の熱なのか。
胸の熱なのか。
もう区別がつかない。
「……しっかり掴まっていろ」
穏やかな声が背中越しに響いた。
「……はい」
女中は小さく返事をする。
その声は震えていた。
腕へ少しだけ力が入る。
離れないように。
落ちないように。
そう自分へ言い聞かせながら。
だが本当は、それだけではなかった。
(離れたくない)
その思いが、腕へ自然と力を込めさせる。
主人は何も言わず歩き始めた。
廊下へ足音が響く。
一歩。
また一歩。
ゆっくりと女中部屋へ向かう。
女中は目を閉じた。
揺れに合わせて身体がわずかに触れ合う。
そのたびに胸は締めつけられ、同時に満たされてもいく。
もう戻れない。
そんな予感だけが、静かに胸の奥で形になり始めていた。




