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家の内側、女中の気配が変わるころ  作者: てきてき@tekiteki


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第45話 境を越えて

──翌日の夜。


屋敷はすでに静まり返り、虫の音だけが庭先から聞こえていた。

書斎には一つだけ行灯が灯り、その柔らかな光が机の上を照らしている。


女中は盆に湯呑を載せ、静かに襖を開けた。


「失礼いたします」


旦那様は本から顔を上げる。


「ああ」


女中は茶を置き、いつものように一歩下がろうとした。

その時だった。


「そうだ……ちょっと、こっちへ来てみろ」


穏やかな声に呼び止められる。


「……はい」


女中は戸惑いながら近づいた。

畳を擦る足音だけが、静かな書斎に響く。

旦那様は立ち上がるでもなく、

その場で軽く手を動かした。


「この間な」


少し照れくさそうに笑う。


「妻がこうやって寄って来てな」


身振りだけで示す。


「『なんだ』と言ったら」


旦那様は苦笑した。


「唇を差し出して来た」


女中は思わず息を止める。

やはり、その話だった。

胸の奥が静かに波立つ。


「ほら」


旦那様は笑いながら言う。


「やってごらん?」


「え……」


女中は目を丸くした。


「恥ずかしくて……」


小さく首を振る。

頬は見る間に赤く染まっていく。


旦那様は、その様子を見て笑った。


「だよな?」


「……」


「それが普通だと言ってやったんだ。」


そして、少し悪戯っぽく続ける。


「『なんだ、雀の真似か』ってな」


女中は思わず小さく笑った。

張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ和らぐ。


それでも胸の鼓動は静まらない。

しばらくして女中は恐る恐る尋ねた。


「……それだけですか?」


旦那様は頷く。


「あの話は、それだけだ」


その一言を聞いた瞬間、女中の肩から力が抜けた。


「……良かった」


ほとんど独り言のような声だった。

旦那様は首を傾げる。


「何が?」


女中ははっとして口をつぐむ。

しまった、と思った。

だが、もう遅い。


旦那様は静かに女中を見つめる。


「お前の中では」


ゆっくりと言葉を選ぶ。


「私は、こうしているとでも思ったか?」


 そう言って、ほんの一歩だけ距離を詰めた。


まるで誰かを抱き寄せるような仕草。

そして接吻を交わそうとするように顔を近づける。


それは演技だった。

説明するためだけの身振り。

そう分かっている。


それでも女中の世界は、一瞬で止まった。

息ができない。

身体が熱を帯びる。

あと少しで触れてしまう。


その距離まで近づいたところで、旦那様は動きを止めた。


「もちろん」


穏やかな声が響く。


「あいつに触れてなどいない」


その言葉で我に返る。

女中の膝から力が抜けた。


「……っ」


視界が揺れる。

崩れ落ちそうになる身体を、どうにか踏みとどまらせる。


「おい」


旦那様は思わず声を掛けた。

だが手は伸ばさない。

伸ばしてはいけないと思った。


女中は胸を押さえ、小さく息を繰り返す。


「……申し訳、ござい……」


何に謝っているのか、自分でも分からなかった。


安堵したのではない。

恐れたのでもない。

その仕草を見た瞬間、

自分がその先まで想像していたことに気づいてしまった。


それが何より恐ろしかった。


旦那様は静かに女中を見つめる。


(言わせた)


そう思った。

いや、違う。

心の奥に隠していたものを、自分が引き出してしまったのだ。


女中は視線を上げられないまま頭を下げた。


「……失礼いたします」


声は震えていた。

ふらつく足取りで書斎を出て行く。

襖が静かに閉まる。


一人残された旦那様は、深く息を吐いた。


(触れていない)


それなのに。


(もう、境を越えているのかもしれんな)


軽い冗談で済ませるつもりだった。

笑って終わらせるつもりだった。

だが、笑えなかった。


自分もまた、あの娘の揺れる瞳を忘れられなくなっていることを、

はっきりと知ってしまったからである。

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