第44話 触れない指先
その夜、書斎には行灯の淡い灯が落ちていた。
机の上には開いたままの本がある。
しかし旦那様の目は、その一頁も追ってはいなかった。
火傷をした女中の姿が、何度も頭に浮かんでは消える。
(大した火傷ではない)
医者を呼ぶほどでもない。
数日もすれば治る程度のものだ。
そう自分へ言い聞かせる。
だが、それとは別のものが胸に引っ掛かっていた。
(あの距離が……)
水で濡らした手拭いを当てるため、手を取った。
肩が触れ合うほど近くまで寄った。
その時の女中の震える呼吸。
伏せられた瞳。
それらが、妙に鮮明に思い出される。
(頭から離れない)
主人は無意識に、自分の右手を見つめた。
あの時、確かに握っていた手。
もう温もりなど残っているはずもない。
それでも、不思議なほど感触だけは消えなかった。
その時だった。
控えめに戸を叩く音がする。
「……入れ」
静かな声に応えて襖が開いた。
女中だった。
昼間よりも少し顔色は良い。
火傷をした手には白い布が巻かれている。
「失礼いたします」
畳へ視線を落としたまま、小さく頭を下げた。
「どうした」
「……その、先ほどのことで」
旦那様は首を傾げる。
「先ほど?」
女中は少しためらい、意を決したように口を開いた。
「奥様がお話しされた……」
一度言葉が途切れる。
「接吻、と申されていたことですが」
書斎の空気が静かに止まった。
主人は思わず苦笑する。
「またあいつは……そんなことを口走っていたか」
深く息をつく。
「あいつは昔から思ったことをすぐ口にする」
困ったように笑うその顔は、どこか諦めにも似ていた。
「すまんな。あんな野暮な話を、お前に聞かせてしまって」
女中は何も答えない。
足元だけを見つめている。
(野暮な話)
確かにそうなのだろう。
夫婦の戯れ話。
奉公人が気にするようなことではない。
そう思えば済む話だ。
けれど、自分の胸はそう簡単には静まってくれなかった。
「気にするな」
主人は穏やかに言う。
「あいつは、ああいうことを軽く言う」
「……はい」
返事はした。
だが、その言葉は心へ届かなかった。
(軽い……)
本当にそうなのだろうか。
奥様が見せた笑顔。
あの日、自分を見つめていた視線。
あれは、ただの冗談だったのだろうか。
考え始めると分からなくなる。
しばらく沈黙が続いた。
やがて主人は静かに尋ねた。
「……お前は、どう思った」
女中の肩がぴくりと震える。
思ったこと。
そんなものを口にできるはずがない。
言えば最後、二度と主人と奉公人ではいられなくなる。
「……恐れ多くて、分かりません」
それが精一杯だった。
主人は静かに頷く。
「……そうか」
そう言って一歩だけ近づいた。
二人の距離が、昼間の台所と同じくらいになる。
女中は息を呑んだ。
(近い……)
火傷を冷やしてもらった時と同じ距離。
胸の鼓動が一気に速くなる。
旦那様の手が、わずかに動いた。
まるで何かを確かめるように。
触れようとして、しかし途中で止まる。
あと少し。
指先一つ分の距離。
それだけが埋まらない。
(何でもない)
そう言えば済む。
済むはずだった。
けれど、もう何事もなかった頃には戻れないことを、
旦那様も薄々感じ始めていた。
女中は微かに指を動かす。
触れたい。
触れてはいけない。
その二つの思いが胸の中で激しくぶつかり合う。
重なった呼吸だけが、静かな書斎へ響いていた。
やがて旦那様は視線を逸らし、小さく咳払いをする。
「……もう遅い」
女中は顔を上げる。
「……え」
「いや、夜が、という意味だ」
少し照れ隠しのような口調だった。
「今日はもう下がれ」
「……はい」
女中は頭を下げる。
襖の前まで歩き、そこで一度だけ立ち止まった。
「……旦那様」
「なんだ」
振り返った女中の唇が小さく動く。
けれど、その先の言葉は最後まで形にならなかった。
「……いえ、何でもございません」
静かに襖が閉まる。
書斎には再び一人だけが残された。
旦那様はゆっくりと自分の右手を見る。
(何もしていない)
触れてもいない。
それなのに。
その指先には……、
まだ何かが残っているような気がしてならなかった。




