第43話 離れたくない
主人は女中の手を見つめたまま、小さく息をついた。
「ちょっと、まだ見せてみろ」
そう言って、再びその手を取る。
女中の身体がわずかに強張る。
「……っ」
今度は火傷を診るためだった。
それくらい分かっている。
それなのに、指先が重なるだけで鼓動は速くなってしまう。
旦那様は赤くなった手の甲を静かに眺めた。
「まだ赤いな」
「……はい」
女中の返事は、自分でも驚くほど柔らかかった。
「水ぶくれになるほど……ではなさそうだ」
「……そう、でございますか」
「ああ、よかった」
その何気ない一言が胸に沁みる。
自分の火傷を、こんなにも案じてくれる人がいる。
それだけのことなのに、涙がこぼれそうになる。
旦那様は手を支えたまま続けた。
「無理に触るな。そのまま冷やしておけ」
「……はい」
返事をしても、手はまだ離れない。
火傷を確かめているだけ。
分かっている。
だが女中の胸は、別の意味を探してしまう。
(離れない)
もう離してほしい。
これ以上近くにいれば、自分がおかしくなる。
そう願う一方で、胸の奥では小さな声が囁く。
(もう少しだけ……)
その矛盾が苦しかった。
やがて旦那様は静かに息を吐く。
「……気をつけろ」
その言葉とともに、ゆっくりと手を離した。
「……はい」
指先から温もりが消えていく。
女中は濡れた手拭いを握り締めた。
そこには冷たい水しか残っていない。
なのに、掌の奥ではまだ熱が燃えているようだった。
旦那様が居間へ戻ったあとも、
女中はしばらく台所を動けなかった。
水音だけが静かに響く。
桶の水へ手を浸す。
火傷の痛みがじんわりと伝わってきた。
(ヒリヒリする……)
熱湯で傷ついた皮膚の痛み。
けれど、それだけではない。
女中はそっと空いている方の手を胸へ当てた。
(本当に熱を持っているのは……)
胸だった。
旦那様に触れられた瞬間から、
そこだけが熱を帯びたまま冷めない。
どれほど冷たい水へ手を浸しても、
その熱だけは消えてくれなかった。
(この時、火傷をしたのは)
女中は静かに目を閉じる。
(私自身だったのかもしれない)
その思いは、不思議なくらい自然に胸へ落ちてきた。
手の火傷はいずれ治る。
赤みも引き、水ぶくれもできずに済むかもしれない。
だが、この胸の痛みはどうだろう。
薬もない。
冷やす水もない。
誰にも見せることすらできない。
湯気がゆっくりと立ち昇る。
その白さを眺めながら、女中は小さく息を吐いた。
(これは……治るものなのだろうか)
答えは返ってこない。
台所の外では、いつもと変わらぬ屋敷の音が聞こえている。
庭師の鋏の音。
風に揺れる竹の葉。
遠くで鳴く鳥の声。
世界は何一つ変わっていない。
変わってしまったのは、自分だけだった。
知らぬふりをして、元へ戻れるだろうか。
主人を主人として見ていた、あの頃の自分へ。
女中はゆっくりと首を横に振る。
(……無理だ)
もう知ってしまった。
あの温もりを。
あの距離を。
ただ手を取られただけで、これほど心が満たされてしまうことを。
それが、何よりも恐ろしかった。
女中は静かに立ち上がる。
仕事へ戻らなければならない。
元の自分へ戻らなければならない。
一歩を踏み出す。
しかし、その足は途中で止まった。
(戻れるのか)
問い掛けても答えはない。
胸の奥に残ったのは、たった一つの願いだけだった。
(……離れたくない)
その願いを認めた瞬間、女中はゆっくりと目を伏せた。
それが、自分の本心なのだと、もう否定することはできなかった。




