第42話 心の火傷
やがて主人は本を閉じ、穏やかな声で言った。
「……茶でも淹れるか」
「……はい」
女中は立ち上がる。
その距離から一歩離れただけなのに、胸のどこかが冷たくなった。
(戻れる)
まだ戻れる。
主人と奉公人。
それだけの関係へ。
そう思う一方で、もう一人の自分が囁く。
(戻りたくない)
思わず振り返る。
旦那様は再び本を開いていた。
けれど、その視線は紙の上を滑るばかりで、
文字を読んではいないように見えた。
「……すぐにお持ちいたします」
女中は静かに頭を下げ、居間をあとにした。
台所では、鉄瓶が静かな音を立てていた。
女中は湯を沸かしながら、自分の胸へ手を当てる。
(もし、あの時……)
先ほどの光景が鮮やかによみがえる。
旦那様が両腕を広げた姿。
冗談めかした笑顔。
もし、あのまま膝の上へ座っていたなら。
どれほど近かっただろう。
どれほど温かかっただろう。
そんな想像をした瞬間、心臓が大きく脈打った。
(近くに……)
思考が勝手に先へ進む。
肩が触れ、息遣いが伝わり、手を取られる。
そこまで想像しただけで頬が熱くなった。
「……っ」
女中は慌てて首を振る。
そんなことがあるはずもない。
あってはならない。
その動揺のまま急須へ湯を注ごうとした時だった。
手元がわずかに狂う。
「あっ……!」
熱湯が手の甲へ流れ落ちた。
鋭い痛みが走る。
「きゃっ!」
反射的に手を引く。
茶碗が小さく音を立てた。
「……あ」
その声を聞きつけたのだろう。
足早な足音が近づいてくる。
台所の戸が勢いよく開いた。
「どうした」
主人だった。
女中は慌てて手を隠そうとする。
「いえ……」
だが、赤くなった手は隠しきれない。
旦那様は眉を寄せた。
「それは……火傷したか!」
その声には、いつもの穏やかさとは違う焦りがあった。
「すぐに冷やせ!」
そう言うなり、水桶へ駆け寄り、手拭いを濡らして戻ってくる。
女中は立ち尽くしたまま動けなかった。
主人は迷うことなく、その手を取る。
「貸せ」
指先が触れ合う。
「……っ」
女中の肩が震えた。
冷たい手拭いが火傷へ当てられる。
「こうして冷やしていろ」
「……はい」
返事はしたものの、耳へ届いているのかさえ分からない。
痛みよりも先に感じたのは、手を包む大きな掌の温もりだった。
距離が近い。
思わず身体が傾き、肩が旦那様の腕へ触れる。
(近い……)
あまりにも近い。
火傷をした手よりも、胸の方が熱かった。
「……痛むか」
旦那様が静かに尋ねる。
「……いえ」
そう答えようとしても声が震える。
「大丈夫でございます……」
「そうか」
旦那様は安心したように頷いた。
それでも、すぐには手を離さない。
火傷の具合を確かめるように、優しく支え続けている。
(離れない)
そう思った瞬間、胸の奥で別の声が囁く。
(離れないでほしい)
その願いに、自分自身が驚く。
離れなければならない。
離れてほしい。
なのに、もう少しだけこのままでいたい。
相反する思いが胸の中で絡まり合い、女中は息を詰めた。
やがて旦那様はゆっくりと手を放した。
「無理はするな」
「……はい」
距離が戻る。
ほんの一歩。
それだけのことなのに、急に台所が広く感じられた。
女中は自分の手を見つめる。
冷たい手拭いの下には火傷の痛みが残っている。
しかし、それとは別の熱が消えなかった。
まるで旦那様の掌の温もりだけが、
皮膚の奥へ染み込んでしまったようだった。
そっと胸へ手を当てる。
(ここにも……)
火傷をしたのは手だけではない。
そんな思いが、静かに心の底から湧き上がっていた。




