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家の内側、女中の気配が変わるころ  作者: てきてき@tekiteki


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第41話 隣という距離

台所では、鉄瓶の湯が静かに音を立て始めていた。

女中は茶筒の蓋を開け、いつものように茶葉を量る。


その手が、不意に止まった。


(いつまで、いられるのか……)


旦那様の言葉が、耳の奥で何度も繰り返される。

奉公人に暇が出されることなど珍しくもない。

いずれ実家へ戻る者もいれば、嫁ぐ者もいる。

それが世の習いだ。


だから、あの言葉は何一つ間違ってはいない。

なのに、胸のどこかが締めつけられる。


(もし、いなくなったら)


茶葉を急須へ移す手が震える。


(この人は……)


何も変わらず朝を迎え、書斎で本を読み、

奥様と茶を飲み、穏やかな日々を過ごしていくのだろう。

自分など初めから存在しなかったかのように。


それでいい。

そうあるべきだ。

そう思うたび、苦しさだけが深くなる。


湯を注ぐ。

白い湯気がゆっくりと立ち上り、視界をぼんやりと曇らせた。


(どうして、こんなにも苦しいのだろう)


茶を盆へ載せる。

その足取りはいつも通り静かだった。

けれど心だけは、少しも静まらない。



居間へ戻ると、主人は本を閉じて女中を迎えた。

湯呑を差し出すと、旦那様は思い出したように口を開く。


「……そういえば」


「はい」


「友人が来ると言ったが」


「はい」


「あれは、方便だ」


 女中は目を瞬かせた。


「……え」


「つまり、いらっしゃらないと?」


「そうだ」


静かな返事だった。

しばらく間が空く。


「……左様でございますか」


「だから、自由にしろ」


思いも寄らぬ言葉だった。


「……自由に、と申されましても」


奉公人に自由と言われても困る。

主人の前で勝手な振る舞いなどできるはずがない。


旦那様は少し考えるように顎へ手を当てた。


「……そうだな」


そして、どこか照れ隠しのような笑みを浮かべる。


「たまには、少し明るく接するとしようか」


「……はい」


女中は意味が分からず、小さく返事をした。

その次の瞬間だった。


「分かった。妻のように膝の上へ来るか?」


そう言って、旦那様は冗談めかして両腕を広げた。


「ほーれ」


その仕草があまりにも自然で、女中は息を呑む。


「……えっ、旦那様……」


頬が一瞬で熱くなる。

頭の中が真っ白になった。


「あの……奥様に叱られてしまいます」


「今は居ないぞ」


「……そのようなことは」


否定したい。

冗談だと分かっている。

それなのに、胸の奥では別の自分が囁いていた。


(もし、本当に……)


その考えを振り払うように唇を噛む。

主人は肩をすくめ、小さく笑った。


「……そうか。仕事熱心だな」


女中は返事をしない。


(違う)


仕事だからではない。

近づけば、自分がどうなってしまうか分からないからだ。


静かな時間が流れる。

やがて女中は意を決したように一歩踏み出した。


旦那様の膝ではない。

その隣へ、そっと腰を下ろす。

畳一枚も離れていない距離。


それでも、決して触れ合うことはない。


「……どうした」


旦那様は少し驚いたように尋ねた。

女中は視線を落としたまま答える。


「今……自由をいただいておりますので」


息を軽く吐いて、そのまま小さく続ける。


「あの……お気になさらず」


主人は何も言わず、その横顔を見つめた。

やがて、静かに頷く。


「そうか……なら、良い」


再び本を開く。

しかし、その目は文字を読んではいなかった。


女中もまた膝の上で両手を握り締める。


(乗らなかった)


それだけで精一杯だった。


(でも……離れなかった)


この距離なら、まだ言い訳ができる。

奉公人が主人の話し相手をしているだけ。

そう思い込める。


けれど、自分の胸は知っていた。

本当に欲しかったものは、その一歩先にあることを。


一方、旦那様も横目で女中を見ていた。


(来なかった)


膝の上には。

だが。


(来た)


その隣へ。

それは偶然ではない。

女中自身が選んだ距離だった。


部屋には再び静けさが満ちる。

障子の向こうでは、夏の風が庭木を揺らしていた。

誰も口を開かない。


それでも互いの存在だけは、これまでになく近く感じられていた。

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