第40話 いつまで、ここに
旦那様はしばらく女中の俯いた顔を見つめていた。
何を謝っているのか。
その理由は、問い返さずとも分かっていた。
分かっているからこそ、返す言葉が見つからない。
長い沈黙のあと、静かな声が部屋に落ちた。
「……座れ」
女中は思わず顔を上げる。
「……え」
「立っていると、疲れるだろう」
思いも寄らぬ言葉だった。
女中は慌てて首を横に振る。
「……いえ、そのようなことは」
「……そうか」
旦那様はそれ以上勧めることなく、再び本を開いた。
だが、その目は文字を追ってはいなかった。
頁だけが静かに開かれ、時間だけが流れていく。
女中もまた動けない。
座ってはいけない。
近づいてはいけない。
そう思う一方で、その場を離れることもできなかった。
互いに何も話さない。
それでも、不思議なことに沈黙は空虚ではなかった。
言葉にならない思いが、部屋の隅々にまで満ちているようだった。
庭を渡る風が障子をかすかに鳴らす。
その音だけが、二人の間を行き来している。
(どうして、こんなにも苦しいのだろう)
女中は胸の奥で呟く。
近くにいるだけで息苦しい。
それなのに、離れてしまえばもっと苦しくなるような気がした。
一方、主人もまた、本を見つめながら自問していた。
(どうして、こんなにも静かでいられない)
何も起きてはいない。
何一つ越えてはいない。
それでも何かが、確実に昨日とは違う場所へ動き始めている。
しばらくして、主人は本を閉じた。
「……お茶をいただこうか」
「……はい」
女中はようやく身体を動かした。
「では、準備を」
立ち去ろうとした、その時だった。
「……せっかくだ」
静かな声に足が止まる。
振り返ると、旦那様は少し照れたように笑っていた。
「教えてくれないか」
「……え」
「淹れ方だ」
女中は驚いたように目を見開く。
「いえ、そのようなこと……。私がおりますので」
奉公人として当然の答えだった。
主人が茶を淹れる必要などない。
そのために自分がいるのだから。
しかし主人は穏やかな口調のまま言った。
「……お前が、いつまで居るか分からないだろう」
その一言が、女中の胸へ静かに落ちた。
思考が止まる。
顔から血の気が引いていくのを、自分でも感じた。
「……え……」
仕事の話なのだ。
奉公人には、いつか暇を出される日が来る。
そんなことは誰よりもよく知っている。
それなのに、その言葉は別の意味を持って胸へ刺さった。
(いつまで……ここに)
この屋敷に。
この人のそばに。
その問いが胸の奥で何度も反響する。
「……はい」
ようやく小さく頷くことしかできなかった。
肩が少しだけ落ちる。
「……すぐに、お持ちいたします」
女中は顔を見られぬよう静かに踵を返した。
廊下へ出ると、歩幅はいつもと変わらない。
だが胸の内だけが大きく揺れていた。
(いつまで、いられるのだろう)
もし、この屋敷を去る日が来たなら。
旦那様は何事もなかったように本を読み、
茶を飲み、静かな日々を送り続けるのだろう。
それでいい。
それが当たり前なのだ。
そう言い聞かせても、胸の重さだけは少しも軽くならなかった。
一方、居間へ残された旦那様は、閉じた本へそっと手を置いた。
(……今のは余計だったか)
口にしなくてもよい言葉だったかもしれない。
だが、奉公人との別れはいつか必ず訪れる。
だからこそ、いつか自分でも茶を淹れられるようになっておこう。
そんな、ごく当たり前の考えだった。
それなのに。
振り返った時に見えた女中の寂しげな横顔だけが、
妙に心へ残っていた。
「……しかし」
誰に聞かせるでもなく呟く。
「なぜ、あの顔をした」
返事はない。
庭木を揺らす風だけが、静かに障子を鳴らしていた。




