第39話 越えてはならない境
昼の座敷には、夏の日差しが障子を透かして白く広がっていた。
主人様は湯呑を手にし、何事もないような顔で茶を飲んでいる。
妻は、その横顔をちらりと見つめた。
「最近、あの子、少し様子がおかしいわね」
何気ない口調だった。
けれど、その言葉は静かな水面へ小石を落とすように、
部屋の空気を揺らした。
「……そうか」
旦那様は茶を口へ運んだまま答える。
「気づかない?」
「特には、何も」
「そう」
奥様は微笑んだ。
その笑みは穏やかでありながら、
どこか相手の心を探るような静けさを宿していた。
あの人は気づかない。
いや、気づいていても表には出さない。
昔からそういう人だった。
喜びも怒りも、胸の内へ収めてしまう。
だからこそ妻には分かる。
この人は、いつもと少しだけ違う。
妻がゆっくり口を開く。
「私はね、あの子と少し話すようにしているの」
「……ああ」
「最近、元気がないように見えるから」
「そうか」
それだけで会話は終わった。
主人は茶を飲み、奥様もまた静かに湯呑を口へ運ぶ。
穏やかな夫婦の昼。
けれど奥様の胸には、別の思いが去来していた。
(少し、お灸が過ぎたかしら)
あの夜、わざと女中の前で主人へ甘えてみせた。
ほんの戯れ。
少し意地の悪い遊び心。
その程度のつもりだった。
しかし、あの娘は思った以上に揺れた。
(あれが、あそこまで効くということは……)
妻は湯呑を静かに置く。
(そういうこと、なのね)
言葉にはしない。
誰にも聞かせない。
その答えだけを、胸の内へそっとしまい込んだ。
──夕暮れ。
女中部屋は薄暗く、小さな窓から茜色の光が差し込んでいた。
女中は畳へ座り込み、膝を抱えている。
何をする気にもなれなかった。
仕事は終わっている。
身体は疲れている。
それなのに、心だけが休まらない。
(落ち着かない)
避けようとしている。
忘れようともしている。
なのに、旦那様の姿が頭から離れなかった。
自分の両手を見つめる。
あの日、ほんのわずかに触れられた感触。
もう消えているはずなのに、まだ残っているような気がした。
指先へ。
掌へ。
そして胸の奥へ。
女中は膝を強く抱き寄せる。
(いけない)
忘れなければならない。
主人は主人。
自分は奉公人。
そこには決して越えてはならない境がある。
分かっている。
頭では、痛いほど。
それなのに、忘れようとすればするほど、その姿は鮮やかになっていく。
目を閉じる。
浮かぶのは、奥様の前で手を取られたあの日のことだった。
自分から振りほどいた。
あれで終わるはずだった。
終わらせなければならなかった。
それなのに。
(終わらない)
むしろ、あの日から何かが始まってしまった。
女中は顔を伏せる。
「……どうして」
声にならないほど小さな呟きだった。
庭では風が木々を揺らし、遠くで鳥が鳴いている。
屋敷の日常は何一つ変わらない。
変わってしまったのは、自分だけだった。
──数日後の昼。
玄関では奥様が外出の支度を整えていた。
「では、行ってきます」
「ああ」
「本当は、あなたも一緒にと思ったのだけれど」
「すまんな。客がある」
「ええ、分かっているわ」
奥様は軽く頷くと、女中へ目を向けた。
「あとはお願いね」
「……はい」
戸が閉まり、静寂が屋敷を包む。
主人と女中。
広い屋敷には、二人だけが残された。
居間では主人が本を開いている。
紙をめくる乾いた音だけが静かに響いていた。
女中は少し離れた場所へ控える。
仕事は終わっている。
本来なら台所へ戻ってもいい。
それなのに、足が動かなかった。
(どうすればいいの)
近くにいるべきではない。
離れた方がいい。
そう思うほど、その場を去る理由も見つからない。
一方、旦那様も本へ目を落としたまま、
背後の気配を感じていた。
(いるな)
振り返らなくても分かる。
そこに女中が立っている。
声を掛けるべきか。
いや、何を話す。
そんなことを考えているうちに、沈黙だけが長く伸びていった。
女中は息苦しさを覚え、一歩だけ動こうとする。
その瞬間、本を閉じる音が部屋へ響いた。
思わず肩が震える。
「用はあるのか」
「いえ……」
「……そうか」
また静けさが戻る。
女中は唇を噛み締めた。
何か言わなければ。
そう思うのに、言葉が見つからない。
「……あの」
「なんだ」
喉まで出かかった言葉は、そこで止まった。
しばらく俯いたまま、ようやく絞り出したのは、
それだけだった。
「……申し訳ございません」
旦那様は眉を寄せる。
「……何がだ」
女中は答えられない。
何に対して謝っているのか、自分でも分からなかったからだ。




