第38話 夫婦だけの距離
夕餉を終えた座敷には、まだ湯気の立つ茶の香りが残っていた。
女中は盆を抱え、静かに襖を開ける。
「お茶をお持ちしました」
そう告げて盆を置くと、いつものように一歩下がり、部屋の隅で控えた。
それだけのことだった。
つもと同じ仕事。
何も変わらないはずだった。
しかし、その夜だけは違った。
「あなた……こちらへ」
奥様が柔らかく主人を呼ぶ。
「なんだ」
気のない返事をした旦那様のそばへ、奥様は身体を寄せた。
そのまま自然な仕草で膝の上へ腰を下ろす。
「……おい」
少し困ったような声が上がる。
「いいでしょう?」
奥様は笑っている。
その手が旦那様の手を包み込み、細い指が一本ずつ絡み合っていく。
女中は息を止めた。
見てはいけない。
そう思った。
思ったはずなのに、視線はどうしても逸らせなかった。
絡み合う指。
寄り添う身体。
夫婦だけに許された距離。
胸の奥が、じわりと締めつけられる。
「最近、冷たいわ」
「そんなことはない」
「そうかしら」
奥様はわざとらしく、さらに指を握り直した。
旦那様は困ったように肩をすくめるだけで振り払おうとはしない。
その様子が、女中には苦しかった。
(見てはいけない)
そう思えば思うほど、目が離れない。
息が詰まる。
「あなたは下がらなくていいわ。そのまま、ここに居なさい」
「……はい」
逃げることすら許されない。
静かな部屋に、重苦しい空気だけが満ちていく。
「おい……もういいだろう」
「まだよ」
奥様は楽しむように笑った。
やがて旦那様は耐え切れなくなったように立ち上がる。
「何か用があれば、書斎にいる」
少しだけ苛立ちを滲ませ、そのまま部屋を出ていった。
襖が閉まる。
急に静かになった座敷で、奥様は女中を見た。
「……どうだった?」
何を問われているのか、分からない。
それでも口を開いた。
「……居心地が、よくありませんでした」
「そう」
奥様は頷いた。
「接吻までしようかと思ったのだけれど」
女中は思わず顔を上げる。
「……えっ」
「やめておいたわ。あなたには刺激が強いと思って」
冗談とも本気ともつかない口調だった。
少し間を置いて、奥様はさらりと言う。
「書斎まで行ってからにする」
女中は何も言えなかった。
分かっている。
試されている。
奥様は全部知っているのだ。
それでも。
胸の苦しさだけは消えなかった。
──翌朝。
台所には水音だけが響いていた。
女中はいつも以上の速さで茶碗を洗う。
(考えない)
考えてはいけない。
(早く終わらせる)
手だけを動かせばいい。
何も思わなければいい。
そう言い聞かせながら洗い続ける。
ところが、一つの茶碗を手にした瞬間だけ、動きが止まった。
主人が毎朝使う湯呑だった。
ほんの一瞬。
本当に一瞬だけ。
指先が固まる。
すぐに茶碗を水へ沈めた。
(見ない)
(感じない)
自分に命じるように、さらに手を速める。
布巾で拭く手にも力が入りすぎ、茶碗がかすかに音を立てた。
(何もなかった)
そう思い込もうとする。
だが胸の奥では、昨夜見た光景が何度も繰り返されていた。
廊下で主人とすれ違う。
「……失礼いたします」
顔を上げない。
視線を合わせない。
「……ああ」
短い返事だけが返ってくる。
そのまま二人は通り過ぎた。
女中は一度も振り返らなかった。
一方、旦那様は数歩進んだところで足を止める。
(避けている)
その態度はあまりにも分かりやすかった。
(だが、それでいい)
そう思う。
思うはずだった。
しかし次の瞬間、別の声が胸の内で囁く。
(いや……それで、本当にいいのか)
振り返った時には、もう女中の姿は廊下の向こうへ消えていた。




