第37話 心を責めずに
──その夜。
女中は眠ることができなかった。
障子の向こうでは虫の音が絶え間なく続いている。
いつもなら、その音を聞いているうちに自然と瞼が重くなる。
だが今夜は違った。
何度寝返りを打っても、胸の奥だけが静まらない。
妻の笑顔が浮かぶ。
「だから私がおります。」
そう言って主人の肩から糸くずを払った、あの穏やかな仕草。
長い年月を共に過ごした夫婦だけが持つ、ごく自然な距離。
あれは決して自分の入れる場所ではなかった。
分かっている。
誰よりも、自分が分かっている。
それでも……。
主人に「よくやった」と言われた時の嬉しさ。
湯呑を割った時、真っ先に怪我を案じてくれた優しさ。
手首を止められた、あの一瞬。
思い返すたびに、胸の奥が熱を帯びる。
「いけない……」
布団の中で、小さく呟いた。
その声は、自分を戒めるためのものだった。
忘れなければならない。
この家へ来た日のことを思い出す。
母に手を引かれ、泣きながら玄関をくぐった幼い自分。
妻は優しく抱きしめてくれた。
主人は「腹が減っているだろう」と、温かな粥を出してくれた。
それから十年。
二人は親よりも長い時間を共に過ごした人たちだ。
恩人だった。
家族だった。
その二人に対して、自分は何を考えているのだろう。
「私は……」
言葉は最後まで続かなかった。
涙が一筋、枕へ落ちる。
誰にも見せることのできない涙だった。
──翌朝。
まだ夜明け前だというのに、女中は井戸端へ立っていた。
冷たい水を桶へ汲み、何度も何度も手を洗う。
指先。
手のひら。
手首。
水は冷たいはずなのに、熱は消えない。
「違う」
女中は首を振る。
「ここじゃない」
熱いのは手ではない。
もっと奥だ。
もっと、自分では届かない場所だった。
やがて妻が起きてきた。
縁側へ出ると、井戸端に立つ女中の姿が目に入る。
「こんな朝早くから?」
女中は驚いたように振り返る。
「奥様……」
「眠れなかったの?」
その一言に、女中は答えられなかった。
妻は何も追及しない。
ただ井戸の縁へ腰を下ろし、女中と同じように桶の水へ手を浸した。
「冷たいですね」
「……はい」
しばらく、水音だけが続く。
妻は空を見上げた。
東の空が少しずつ白み始めている。
「人はね」
ぽつりと口を開く。
「どれほど真面目でも、心だけは思うようになりません」
女中は息をのんだ。
「思ってはいけないと考えるほど、そこへ心が向いてしまうこともあります」
女中は俯く。
胸が締めつけられた。
まるで、自分の心を見透かされているようだった。
妻はなおも空を見つめている。
「だから、大切なのは」
少しだけ微笑んだ。
「心を責めることではありません。
どう振る舞うか、なのです。」
女中の瞳から、また一粒涙が落ちる。
妻はその涙を見ても、何も言わなかった。
ただ静かに立ち上がる。
「朝餉の支度をしましょう。
今日は、お味噌汁をお願い。」
いつもと同じ言葉。
いつもと同じ朝。
その何気ない優しさが、女中には何よりも苦しかった。
(奥様は……。何もかも、お見通しなのかもしれない)
そう思いながらも、女中は涙を袖で拭い、小さく頭を下げた。
「……はい」
その返事だけは、いつもと変わらぬ女中の声だった。




