表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
家の内側、女中の気配が変わるころ  作者: てきてき@tekiteki


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
37/54

第37話  心を責めずに

──その夜。


女中は眠ることができなかった。

障子の向こうでは虫の音が絶え間なく続いている。


いつもなら、その音を聞いているうちに自然と瞼が重くなる。

だが今夜は違った。

何度寝返りを打っても、胸の奥だけが静まらない。


妻の笑顔が浮かぶ。


「だから私がおります。」


そう言って主人の肩から糸くずを払った、あの穏やかな仕草。

長い年月を共に過ごした夫婦だけが持つ、ごく自然な距離。

あれは決して自分の入れる場所ではなかった。


分かっている。

誰よりも、自分が分かっている。


それでも……。

主人に「よくやった」と言われた時の嬉しさ。

湯呑を割った時、真っ先に怪我を案じてくれた優しさ。

手首を止められた、あの一瞬。


思い返すたびに、胸の奥が熱を帯びる。


「いけない……」


布団の中で、小さく呟いた。

その声は、自分を戒めるためのものだった。

忘れなければならない。


この家へ来た日のことを思い出す。

母に手を引かれ、泣きながら玄関をくぐった幼い自分。


妻は優しく抱きしめてくれた。

主人は「腹が減っているだろう」と、温かな粥を出してくれた。


それから十年。

二人は親よりも長い時間を共に過ごした人たちだ。


恩人だった。

家族だった。

その二人に対して、自分は何を考えているのだろう。


「私は……」


言葉は最後まで続かなかった。

涙が一筋、枕へ落ちる。


誰にも見せることのできない涙だった。



──翌朝。


まだ夜明け前だというのに、女中は井戸端へ立っていた。

冷たい水を桶へ汲み、何度も何度も手を洗う。


指先。

手のひら。

手首。

水は冷たいはずなのに、熱は消えない。


「違う」


女中は首を振る。


「ここじゃない」


熱いのは手ではない。

もっと奥だ。

もっと、自分では届かない場所だった。


やがて妻が起きてきた。

縁側へ出ると、井戸端に立つ女中の姿が目に入る。


「こんな朝早くから?」


女中は驚いたように振り返る。


「奥様……」


「眠れなかったの?」


その一言に、女中は答えられなかった。

妻は何も追及しない。

ただ井戸の縁へ腰を下ろし、女中と同じように桶の水へ手を浸した。


「冷たいですね」


「……はい」


しばらく、水音だけが続く。


妻は空を見上げた。

東の空が少しずつ白み始めている。


「人はね」


ぽつりと口を開く。


「どれほど真面目でも、心だけは思うようになりません」


女中は息をのんだ。


「思ってはいけないと考えるほど、そこへ心が向いてしまうこともあります」


女中は俯く。

胸が締めつけられた。

まるで、自分の心を見透かされているようだった。


妻はなおも空を見つめている。


「だから、大切なのは」


少しだけ微笑んだ。


「心を責めることではありません。

どう振る舞うか、なのです。」


女中の瞳から、また一粒涙が落ちる。

妻はその涙を見ても、何も言わなかった。


ただ静かに立ち上がる。


「朝餉の支度をしましょう。

今日は、お味噌汁をお願い。」


いつもと同じ言葉。

いつもと同じ朝。

その何気ない優しさが、女中には何よりも苦しかった。


(奥様は……。何もかも、お見通しなのかもしれない)


そう思いながらも、女中は涙を袖で拭い、小さく頭を下げた。


「……はい」


その返事だけは、いつもと変わらぬ女中の声だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ