第36話 仕事の誇り
──その翌日。
女中はいつも通り朝早く起き、家中の掃除を済ませていた。
廊下も。
座敷も。
帳場も。
どこも申し分ないほど綺麗だった。
それなのに。
どこか落ち着きがない。
廊下を拭き終えたあとも、もう一度雑巾を絞る。
柱を拭けば、また最初へ戻る。
誰も気づかないほどの埃まで探しているようだった。
「もう十分です」
妻が声を掛ける。
「はい」
女中は雑巾を握ったまま頭を下げる。
「でも、もう少しだけ……。
こちらの角が、まだ気になりまして」
妻は静かに廊下へ目を向ける。
どこを見ても、磨き残しなどない。
それでも女中は、何かに追われるように布を動かしている。
(やっぱり)
妻は胸の内で小さく息をついた。
湯呑を割ってからだ。
あの子は失敗を恐れるようになった……。
いや、違う……。
失敗そのものではない。
旦那様を失望させることを、恐れている。
その違いが、妻には分かってしまった。
「はい、もう、おしまい」
穏やかな声だった。
「え……」
「少し、私の部屋へいらっしゃい」
女中は不安そうな顔になる。
「何か……」
「叱るわけではありません」
妻は微笑んだ。
「お茶でも飲みましょう」
居間には昼の柔らかな光が差し込んでいた。
妻は自ら急須へ湯を注ぎ、女中の前へ湯呑を置く。
「座りなさい」
女中は遠慮がちに正座した。
静かな時間が流れる。
妻はすぐには話を切り出さなかった。
一口、茶を飲む。
女中もそれに倣う。
「覚えていますか」
妻が穏やかに口を開く。
「あなたが初めて、この家へ来た日のこと」
女中は少しだけ笑った。
「はい。毎日泣いておりました」
「ええ」
妻も笑う。
「夜になると、お母さんに会いたいって」
女中は恥ずかしそうに俯いた。
「今思うと、お恥ずかしいです」
「恥ずかしくなんてありません」
妻は首を横へ振る。
「だって、まだ子供だったのですもの」
少し間が空く。
妻は女中を静かに見つめた。
「それから、初めて味噌汁を作った日」
「味噌を入れ過ぎてしまいました。」
「はい……」
「洗濯物を川へ流してしまったこともありましたね」
女中は思わず笑ってしまう。
「ああ……、ございました。
本当に、ご迷惑ばかり……」
「でも……」
妻は優しく遮った。
「あなたは、その度に次は失敗しないよう、一生懸命覚えてきました。
だから今のあなたがいるの。」
女中は静かに頷いた。
その目は少し潤んでいた。
妻はそこで初めて本題へ入る。
「けれど最近」
女中の肩がぴくりと動く。
「あなた、少し自分を追い込み過ぎています」
女中は返事ができなかった。
「これは、失敗を恐れているのではありませんね」
妻の声は穏やかだった。
「あの人に、がっかりされたくない……という事かと」
女中は息を止めた。
図星だった。
「いえ……違います」
そう言おうとして、言葉が続かない。
妻は責めなかった。
「まぁ、違うと言いたい気持ちも分かります。
でもね、あなたは最近、仕事を見直す時……、
私ではなく、あの人の帳場から見える場所ばかり気にしています」
女中はゆっくりと顔を上げた。
そんなところまで見られていた。
「奥様……」
妻は静かに女中の手へ自分の手を重ねた。
「あの人に認めてもらえると嬉しいのでしょう。
それは悪いことではありません。
私だって、若い頃はそうでした」
女中は驚いて妻を見る。
「ですが……」
妻の表情が少しだけ真剣になる。
「一人のためだけに頑張り始めると、心はとても脆くなります」
お茶を一すすりして続ける。
「仕事は、この家のため」
「私のため」
「あの人のため」
「そして何より、あなた自身の誇りのためになさい」
女中は俯いたまま、小さく涙をこぼした。
「……はい」
その返事を聞きながら、妻は胸の奥で思う。
(まだ間に合う。この子は、まだ戻れる。)
そう信じたい気持ちと、
もう戻れないところまで来ているのではないかという不安が、
静かにせめぎ合っていた。




