表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
家の内側、女中の気配が変わるころ  作者: てきてき@tekiteki


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
36/51

第36話  仕事の誇り

──その翌日。


女中はいつも通り朝早く起き、家中の掃除を済ませていた。

廊下も。

座敷も。

帳場も。

どこも申し分ないほど綺麗だった。


それなのに。

どこか落ち着きがない。


廊下を拭き終えたあとも、もう一度雑巾を絞る。

柱を拭けば、また最初へ戻る。

誰も気づかないほどの埃まで探しているようだった。


「もう十分です」


妻が声を掛ける。


「はい」


女中は雑巾を握ったまま頭を下げる。


「でも、もう少しだけ……。

こちらの角が、まだ気になりまして」


妻は静かに廊下へ目を向ける。

どこを見ても、磨き残しなどない。

それでも女中は、何かに追われるように布を動かしている。


(やっぱり)


妻は胸の内で小さく息をついた。

湯呑を割ってからだ。

あの子は失敗を恐れるようになった……。


いや、違う……。


失敗そのものではない。

旦那様を失望させることを、恐れている。

その違いが、妻には分かってしまった。


「はい、もう、おしまい」


穏やかな声だった。


「え……」


「少し、私の部屋へいらっしゃい」


女中は不安そうな顔になる。


「何か……」


「叱るわけではありません」


妻は微笑んだ。


「お茶でも飲みましょう」


居間には昼の柔らかな光が差し込んでいた。

妻は自ら急須へ湯を注ぎ、女中の前へ湯呑を置く。


「座りなさい」


女中は遠慮がちに正座した。

静かな時間が流れる。

妻はすぐには話を切り出さなかった。


一口、茶を飲む。

女中もそれに倣う。


「覚えていますか」


妻が穏やかに口を開く。


「あなたが初めて、この家へ来た日のこと」


女中は少しだけ笑った。


「はい。毎日泣いておりました」


「ええ」


妻も笑う。


「夜になると、お母さんに会いたいって」


女中は恥ずかしそうに俯いた。


「今思うと、お恥ずかしいです」


「恥ずかしくなんてありません」


妻は首を横へ振る。


「だって、まだ子供だったのですもの」


少し間が空く。


妻は女中を静かに見つめた。


「それから、初めて味噌汁を作った日」


「味噌を入れ過ぎてしまいました。」


「はい……」


「洗濯物を川へ流してしまったこともありましたね」


女中は思わず笑ってしまう。


「ああ……、ございました。

本当に、ご迷惑ばかり……」


「でも……」


妻は優しく遮った。


「あなたは、その度に次は失敗しないよう、一生懸命覚えてきました。

だから今のあなたがいるの。」


女中は静かに頷いた。

その目は少し潤んでいた。

妻はそこで初めて本題へ入る。


「けれど最近」


女中の肩がぴくりと動く。


「あなた、少し自分を追い込み過ぎています」


女中は返事ができなかった。


「これは、失敗を恐れているのではありませんね」


妻の声は穏やかだった。


「あの人に、がっかりされたくない……という事かと」


女中は息を止めた。

図星だった。


「いえ……違います」


そう言おうとして、言葉が続かない。

妻は責めなかった。


「まぁ、違うと言いたい気持ちも分かります。

でもね、あなたは最近、仕事を見直す時……、

私ではなく、あの人の帳場から見える場所ばかり気にしています」


女中はゆっくりと顔を上げた。

そんなところまで見られていた。


「奥様……」


妻は静かに女中の手へ自分の手を重ねた。


「あの人に認めてもらえると嬉しいのでしょう。

それは悪いことではありません。

私だって、若い頃はそうでした」


女中は驚いて妻を見る。


「ですが……」


妻の表情が少しだけ真剣になる。


「一人のためだけに頑張り始めると、心はとても脆くなります」


お茶を一すすりして続ける。


「仕事は、この家のため」

「私のため」

「あの人のため」

「そして何より、あなた自身の誇りのためになさい」


女中は俯いたまま、小さく涙をこぼした。


「……はい」


その返事を聞きながら、妻は胸の奥で思う。


(まだ間に合う。この子は、まだ戻れる。)


そう信じたい気持ちと、

もう戻れないところまで来ているのではないかという不安が、

静かにせめぎ合っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ