第35話 見ていてくださった
──翌朝。
女中は誰よりも早く目を覚ました。
まだ空は白み始めたばかり。
井戸で水を汲み、庭へ打ち水をする。
飛び石を一枚ずつ濡らし、箒で静かに掃く。
朝露に濡れた庭は、どこか昨日までとは違って見えた。
(今日は……)
今日こそは失敗をしない。
昨日のことを思い出すたび、そう心に決めていた。
朝餉の支度も終わり、亭主が帳場へ姿を見せる。
女中は膳を運びながら、そっと様子をうかがった。
昨日のことを気にしているだろうか。
いや、それとも、もう忘れてしまわれただろうか。
そんなことを考えている自分に気づき、慌てて頭を振る。
(仕事に集中しなければ)
湯呑を置く。
箸を揃える。
一つひとつ確かめる。
「ご飯を」
亭主が茶碗を差し出した。
「はい」
女中は丁寧によそい、両手で差し出す。
その時。
「今日は落ち着いているな」
亭主が何気なく言った。
「昨日より、手元がしっかりしている」
女中は思わず顔を上げた。
「……はい。昨日、教わりましたので」
亭主は小さく頷く。
「それでいい。人は、一日で変われるものだ。」
それだけ言うと、食事へ戻った。
ほんの短い会話。
それなのに。
女中の胸には、朝日が差し込んだような温かさが広がる。
(見ていてくださった)
昨日の失敗だけではない。
今日の仕事ぶりも。
ちゃんと見ていてくださった。
その日一日、女中の足取りは軽かった。
廊下を拭く。
洗濯物を干す。
帳場を掃く。
どの仕事も、不思議なくらい苦にならない。
「今日は元気ね」
妻が笑う。
「はい」
思わず返事も弾む。
「何か良いことでも?」
「……。」
女中は答えようとして口を閉じた。
「いえ。今日は、お天気が良いので」
妻は不思議そうに笑った。
「そう……」
それ以上は聞かなかった。
──夕方。
女中は帳場の障子を拭いていた。
少しでも曇りが残らないよう、何度も布を替える。
その様子を、妻は廊下から見ていた。
(ずいぶん熱心ね)
以前から真面目な子だった。
けれど最近は、真面目というより、
自分へ厳しくなったように見える。
仕事が終わっても、もう一度見直す。
気になる場所があれば、誰に言われなくてもやり直す。
その姿は頼もしくもあり、少し心配でもあった。
妻は静かに声を掛ける。
「もう十分きれいですよ」
女中は振り返る。
「ですが……。
もう少し磨けば、旦那様も気持ちよくお仕事ができるかと」
その言葉に、妻は一瞬だけ表情を止めた。
すぐに穏やかな笑みへ戻す。
「そうね。きっと喜ばれます」
女中は嬉しそうに頷き、もう一度布を絞った。
その後ろ姿を見つめながら、妻は胸の内で小さく息をつく。
(この子は……)
仕事が好きなのではない。
誰かに喜んでもらうことが嬉しいのだ。
そして今、その「誰か」が少しずつ一人へ傾き始めていることに、
妻だけが薄々気づき始めていた。
一方の女中は、そんな自分の変化にまだ気づいていない。
ただ一つだけ確かなことがあった。
今日も旦那様に「落ち着いているな」と言っていただけた。
その一言があるだけで、また明日も頑張れる。
その思いはいつしか、仕事への励みを超え、
自分の心を支える大切な拠り所へと、
静かに変わり始めていた。




