第34話 優しさに甘えず
その夜。
女中は一人、台所で明日の支度をしていた。
米を研ぎ、釜へ移す。
味噌を量り、朝に使う野菜を揃える。
いつもと変わらぬ仕事。
それなのに、
手首へ触れた温もりだけが、どうしても思い出される。
「……いけない」
小さく首を振る。
旦那様は怪我をさせまいと止めてくださっただけ。
それ以上でも、それ以下でもない。
分かっている。
分かっているのに、胸の奥が静かに波立つ。
「何を考えているのでしょう……」
自分へ言い聞かせるように呟き、釜の蓋を閉じた。
その時だった。
「まだ起きていたの」
妻が静かに台所へ入ってきた。
「あ、奥様」
女中は慌てて立ち上がる。
「明日の支度を」
「そう。」
妻は米櫃の蓋へ手を置き、小さく笑った。
「今日は、もう十分働きましたよ」
「でも……」
「気になるのですね」
女中は返事ができなかった。
妻は静かに続ける。
「湯呑を割ったこと」
女中は小さく頷く。
「はい」
「旦那様にも、ご迷惑を……」
妻は穏やかに首を横へ振った。
「違います。
あなたが一番気にしているのは、湯呑ではありませんね。」
女中は思わず顔を上げる。
見透かされたような気がした。
「旦那様に心配を掛けてしまったこと。
そうでしょう。」
女中は俯いた。
「……はい。叱られる方が、楽でした」
その言葉に、妻は少しだけ目を細めた。
「そういうこともありますね。
優しくされると、自分を責めてしまう。
私も若い頃は、そうでした。」
女中は驚く。
「奥様も……」
「ええ、前にね」
妻は静かに笑った。
「あの人は、ほんと、昔からそういう人です。
誰かが失敗をすると、まず怪我をしていないか聞く。
物のことは、その後。
だから店の者も長く勤めてくれるのでしょう」
女中は昼間の町で聞いた言葉を思い出した。
――旦那さんは優しい人ですね。
本当に、その通りなのだ。
「ですが」
妻は女中の目を見つめる。
「だからといって、それに甘えてはいけません」
その言葉に、女中は背筋を伸ばした。
「はい」
「優しさに慣れてしまうと、
人は自分へ厳しくできなくなります」
「それは、この人も望んではいません。」
女中は深く頭を下げる。
「これからは、もっと気をつけます」
「ええ」
妻は優しく頷いた。
「その気持ちだけで十分です。
今日の失敗も、きっと無駄にはなりません。」
女中は少しだけ表情を和らげた。
「ありがとうございます」
その時、廊下から足音が聞こえた。
主人だった。
「まだ話していたのか。」
妻は振り返って笑う。
「ええ。この子が少し落ち込んでいましたので」
主人は女中を見る。
「まだ気にしていたのか」
女中は恥ずかしそうに俯く。
「申し訳ございません」
主人は困ったように笑った。
「それなら、一つ教えてやろう」
「はい」
「俺は商いを始めてから、
茶碗も湯呑も、帳簿も、何度も駄目にしてきた」
女中は目を丸くする。
「旦那様が……」
「ああ」
「若い頃は失敗ばかりだ。だから今がある」
亭主は穏やかに続けた。
「失敗しない人間より。
同じ失敗を二度しない人間の方が、信用される。」
台所が静まり返る。
女中はその言葉を胸の中で繰り返した。
同じ失敗を二度しない。
それなら、自分にもできる。
亭主は微笑んだ。
「よし、今日はもう休め。明日から、また頼む」
「……はい」
女中は今までで一番晴れやかな表情で頭を下げた。
「明日は、もっと良い仕事をいたします」
その返事を聞いた妻は満足そうに頷き、
亭主も静かに笑みを浮かべる。
夏の夜は更けていく。
台所の灯が消える頃には、
女中の胸に残っていた不安は少しだけ薄れた。
その代わりに「もっとこの家の役に立ちたい」という思いが、
昨日よりも少しだけ大きく育っていた。




