第33話 奥様には敵わない
妻は箒と塵取りを持って戻ってきた。
「少し失礼しますね」
女中の前へ静かにしゃがみ込み、
細かな破片を一つひとつ掃き集めていく。
亭主も反対側から大きな欠片を拾っていた。
誰も女中を責めない。
そのことが、かえって女中の胸を苦しくした。
「申し訳ございません……」
声が震える。
妻は手を止めずに答えた。
「湯呑は、また買えます。
でも、あなたの手は買えません」
女中は思わず顔を上げた。
その言葉は、先ほど亭主が口にした言葉とよく似ていた。
亭主も妻を見る。
妻は少しだけ笑う。
「あなたがよく言うでしょう」
亭主は照れくさそうに苦笑した。
「覚えていたか」
「もちろんです」
夫婦はほんの一瞬、顔を見合わせる。
それだけで互いの考えが伝わっているようだった。
女中は、その穏やかな空気を見つめる。
二人は何も特別なことをしているわけではない。
大きな声も出さない。
慌てもしない。
それなのに、一緒にいるだけで安心できる空気があった。
(やっぱり……)
奥様には敵わない。
そう思う一方で、不思議と寂しさはなかった。
旦那様が優しいのは、自分にだけではない。
奥様にも。
店の者にも。
町の人にも。
だからこそ、皆が慕うのだ。
その優しさに、自分も救われてきた。
そう思うと、胸の奥が少しだけ温かくなる。
やがて破片を拾い終えると、
妻は塵取りを持って立ち上がった。
「これで大丈夫」
亭主も最後の欠片を拾い上げる。
「怪我は、本当にないな。」
女中は何度も頷いた。
「はい。ご心配をお掛けしました」
亭主は安心したように息をつく。
「ならいい」
そう言って立ち上がろうとした時、妻がくすりと笑った。
「あなた」
「何だ」
「湯呑を割ったのは、この子だけではありませんよ」
亭主は眉を上げた。
「そうだったか」
「忘れたのですか」
妻は懐かしそうに笑う。
「私も嫁いできたばかりの頃、
この縁側で湯呑を割りました」
亭主は「ああ」と小さく声を漏らした。
「そういえば、あったな」
「緊張して手が震えて。
泣きそうな顔をしていました」
妻は少し照れながら笑う。
「その時あなたは、『怪我がなくてよかった』と、
それしか言いませんでした」
亭主は照れ隠しのように頭を掻いた。
「そんなこともあったか」
「ええ。だから私も、今この子に同じことを言ったのです」
女中は驚いたように二人を見る。
奥様にも、そんな頃があった。
失敗して。
励まされて。
少しずつ、この家の奥様になっていった。
妻は女中へ向き直る。
「誰でも失敗はします。
大切なのは、その後どうするかです」
女中は深く頭を下げた。
「はい。次からは、もっと気をつけます」
「それでいいの」
妻は優しく頷いた。
「今日はもう、このことは終わり。
いつまでも引きずると、明日の仕事まで曇ってしまいますから」
女中は「はい」と返事をした。
その返事には、先ほどまでの震えはなかった。
亭主はそんな二人を見つめながら、静かに縁側へ腰を下ろす。
虫の音が、再び庭へ戻ってきた。
割れた湯呑は元には戻らない。
けれど、その夜の出来事は、三人の心の距離を少しだけ近づけていた。
女中は胸の奥で、そっと誓う。
(もっと立派な女中になります。)
(奥様に安心していただけるように。)
(旦那様に、また「よくやった」と言っていただけるように)
その二つの願いは、まだ同じ重さで、静かに胸の中へ並んでいた。




