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家の内側、女中の気配が変わるころ  作者: てきてき@tekiteki


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第32話 手首に残るぬくも

女中は盆を抱え、台所へ戻ろうとしていた。

縁側では、亭主と妻がまだ穏やかに話を続けている。


「そういえば」


妻が笑う。


「この前、町で買ってきた扇子。

あれ、結局あなたがお使いになっているでしょう?」


「ああ」


亭主も笑った。


「お前が『私には派手過ぎる』と言うからな」


「もう」


妻は肩をすくめる。


「そういうところだけ素直なんですから」


二人の笑い声が夜風に溶ける。

女中は歩きながら、その声を聞いていた。


(奥様は……)


旦那様のことを、本当によくご存じなのだ。


どんな物が好きで。

どんな癖があって。

何を言えば笑うのかも。


十年。

二人が積み重ねてきた時間は、自分には決して埋められない。

その当たり前のことが、胸へ静かに沁みていく。


それなのに、

旦那様が笑うと、なぜだか自分まで嬉しくなる。

仕事を褒めていただけた日は、一日中足取りが軽い。


「よくやった。」


「美味い。」


そんな短い一言が、何日も心に残ってしまう。


奥様に認めていただけることも、もちろん嬉しい。

安心して任せられると言っていただいた時は、

胸がいっぱいになった。


それでも……。

旦那様の一言は、どこか違っていた。


どうして違うのだろう。

自分でも分からない。


女中は縁側で笑い合う二人を、そっと見つめた。

奥様は自然に旦那様の肩へ手を伸ばし、糸くずを取っていた。

旦那様も、それを当たり前のように受け入れている。


長い年月を共に過ごした夫婦だけが持つ、穏やかな空気。

見ているだけで温かい。

それなのに。

胸の奥が、少しだけ締めつけられる。


(どうして……)


自分も、あんなふうに笑えたらと思ったのだろうか。


違う。

そんなことを願ってはいけない。

奥様は、この家の奥様だ。

旦那様の隣にいられる、ただ一人のお方。

それは誰にも変えられない。


分かっている。

分かっているのに。

奥様が少しだけ羨ましいと思ってしまった自分がいた。


その気持ちに気づいた瞬間、

女中は胸の奥が熱くなるのを感じた。


(いけない……)


何がいけないのかも、まだはっきりとは分からない。

ただ、この気持ちは誰にも知られてはいけない。

そう思った、その時だった。


指先から力が抜けた


「あ……。」


盆がわずかに傾く。

湯呑が一つ、縁から滑り落ちた。


カラン――。


乾いた音が縁側へ響く。

次の瞬間。

ガシャン。


白磁の湯呑が石畳へ落ち、粉々に砕け散った。

静かな庭へ、その音だけが大きく響く。


女中は真っ白になった。

女中は真っ青な顔で膝をついた。


「申し訳ございません!」


割れた湯呑へ、思わず手を伸ばす。

欠けた破片が月明かりを受け、鋭く光っていた。


「私がすぐ――」


その瞬間だった。


「駄目だ」


温かな感触が、女中の手首へ伝わる。

亭主が咄嗟にその手を掴んでいた。


女中は息をのむ。


「あ……」


「触るな!」


亭主の声はいつになく強かった。


「よく見ろ」


指差した先には、米粒ほどの細かな破片が無数に散っている。


「そんなものを素手で拾えば、必ず切る」


女中は自分の手元を見る。

慌てていて、何も見えていなかった。


「申し訳……」


言葉を続けようとした時、亭主もようやく気づいた。

自分が女中の手首を掴んだままだということに。


「……」


一瞬だけ表情が止まる。

そして、まるで熱いものへ触れたように、静かに手を離した。


「……すまん」


それだけ言うと、すぐに視線を破片へ戻す。


「箒を持ってきてくれ」


女中は返事もできなかった。

手首には、もう何も触れていない。


それなのに。

そこだけが、不思議なくらい熱を持っている。


「はい……」


かすれた声で答える。


その様子を、妻は静かに見ていた。

夫が咄嗟に止めたことも。

すぐに手を離したことも。

そのどちらも分かっていた。


だから何も言わない。

代わりに女中へ穏やかに声を掛ける。


「慌てると危ないでしょう。

こういう時は、まず深呼吸をしなさい」


女中はようやく頷いた。


「……はい」


妻は箒と塵取りを取りに向かう。

亭主は黙って大きな破片だけを拾い集める。


女中はその場に立ち尽くしたまま、

右手をそっと左手で包んだ。

掴まれたのはほんの一瞬。

怪我をさせまいとしただけ。

それは十分に分かっている。


分かっているのに、胸の鼓動だけが静まらなかった。

庭を吹き抜ける夜風が涼しいはずなのに、

手首だけは、いつまでも温もりを覚えているようだった。

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