第31話 糸くずひとつで
夕餉を終えた後のことだった。
縁側には、涼しい夜風が流れている。
昼間の暑さがようやく和らぎ、
庭では虫の音が静かに響いていた。
女中は盆を抱え、湯呑を下げに縁側へ向かう。
亭主と妻は並んで腰を下ろし、夕涼みをしていた。
「失礼いたします」
女中は静かに膝をつき、空いた湯呑へ手を伸ばす。
その時だった。
「あなた」
妻が小さく笑った。
「何だ」
亭主が振り向く。
「ほら」
妻は亭主の肩へ手を伸ばした。
羽織の肩口に、小さな糸くずが付いていたのだ。
「もう。こういうところは、本当に気がつかないのですね。」
妻は指先でそっと糸くずを摘まみ取る。
亭主は苦笑した。
「仕事ばかりでな。気をつけているつもりなんだが」
「つもり、でしょう?」
妻は少しだけ笑う。
「だから私がおります。
外では立派な旦那様でも、
家へ帰れば放っておくと着物も乱れたまま。」
昔から変わりませんね。」
亭主も笑った。
「そうだったか」
「ええ」
「昔からです」
二人は顔を見合わせ、小さく笑い合う。
派手なやり取りではない。
長年連れ添った夫婦だけが持つ、穏やかな空気だった。
女中は、その様子を見ないように湯呑を盆へ載せていく。
(奥様は……)
自然に旦那様へ触れられる。
旦那様も、それを当たり前のように受け入れている。
それが夫婦なのだ。
女中は初めて、その距離の近さを目の当たりにした。
「ありがとう」
亭主が妻へ言う。
「これくらい」
妻は笑って首を振った。
「私の仕事です」
その言葉が、女中の胸へ静かに落ちた。
私の仕事。
女中にも仕事はある。
掃除をして。
洗濯をして。
食事を作る。
けれど……。
肩の糸くずを取ることも。
着物を整えることも。
疲れた顔を見て「お疲れ様」と笑うことも。
それは自分の仕事ではない。
奥様だけができること。
夫婦だけに許された距離。
女中は盆を抱えて立ち上がる。
「失礼いたします」
「ご苦労」
亭主がいつものように声を掛ける。
「はい」
女中は笑顔で頭を下げた。
いつもと同じ返事。
けれど歩きながら、胸の奥が少しだけ苦しかった。
羨ましい、とは違う。
悲しい、でもない。
ただ、旦那様には奥様がいらっしゃる。
そんな当たり前のことを、
改めて心へ刻まれたような気がした。
台所へ戻ると、女中は静かに湯呑を洗い始める。
水の冷たさが指先へ伝わる。
桶に映る自分の顔を見つめ、小さく微笑んだ。
「奥様には……敵いませんね」
その呟きには嫉妬はなかった。
尊敬と、少しだけ胸の奥が痛むような、
淡い感情だけが、静かに混じっていた。




