第30話 心に灯るぬくもり
女中は、その日から仕事への向き合い方が少しだけ変わった。
これまでも手を抜いたことは一度もない。
それでも今は、
「終わらせる」だけでは満足できなくなっていた。
朝一番に起きると、まず庭を見回る。
夜の風で落ちた葉はないか。
飛び石は濡れて滑りやすくなっていないか。
井戸の桶は所定の位置に戻っているか。
誰かに言われたわけではない。
自分で気づき、自分で直す。
そんなことが少しずつ増えていった。
ある朝、妻が縁側へ出てくると、
庭はすでに掃き清められていた。
朝日に照らされた飛び石には、
一枚の落ち葉も残っていない。
「まあ」
思わず声が漏れる。
女中は庭の隅で箒を洗っていた。
「おはようございます、奥様」
「あなた、もう終わったの?」
「はい。今日は風がありませんでしたので、早く済みました」
妻は庭を見回した。
隅々まで目が行き届いている。
植木鉢の向きまで、日当たりを考えて少しだけ変えられていた。
「これは……」
妻は小さく笑った。
「私より気が付くようになったわね」
女中は慌てて首を横に振る。
「そんなことはございません。
奥様から教えていただいたことを、
そのままやっているだけです」
妻は静かに頷いた。
「教えたことだけでは、ここまではできません」
「よく見ている証拠です」
その言葉を聞いた瞬間、女中の胸がふわりと温かくなった。
「ありがとうございます」
頭を下げる声まで、少し弾んでいる。
その様子を見て、妻も自然と頬が緩んだ。
この子は本当に素直だ。
褒めれば、それだけ嬉しそうな顔をする。
だから教え甲斐がある。
──昼前。
台所では、女中が一人で味噌汁を作っていた。
妻は少し離れたところで、夕飯の下ごしらえをしている。
以前なら何度も味を見てもらっていた。
今日は違う。
「できました」
女中がお椀へ少し取り分ける。
妻は静かに口へ運んだ。
出汁の香り。
味噌の濃さ。
具の火の通り。
ゆっくり味わってから、お椀を置く。
「ええ、もう安心ですね」
女中は思わず聞き返した。
「安心……ですか」
「あなた一人に任せても、心配しなくて済みます。
いつの間に、こんなに上手になったのでしょう。」
その言葉だけで十分だった。
女中は嬉しさを隠し切れず、少しだけ目を潤ませる。
「奥様のおかげでございます」
「私一人では何も……」
妻は優しく微笑んだ。
「違います。教えるだけでは、人は育ちません。
覚えようとする人だから、身につくのです。」
女中は深く頭を下げた。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
褒めてもらえることが、こんなにも嬉しい。
もっと覚えたい。
もっと役に立ちたい。
そんな気持ちが自然と湧いてくる。
──昼餉の時間。
亭主は何も知らずに席へ着いた。
妻が静かに料理を並べる。
女中は最後に味噌汁を運び、一歩下がった。
「いただきます」
亭主は箸を取り、味噌汁を口へ運ぶ。
一口。
静かに飲み込む。
もう一口。
妻は何も言わず、その様子を見ていた。
やがて亭主が顔を上げる。
「今日の味噌汁は……」
女中の胸が小さく高鳴る。
「いつもより、出汁がよく利いているな」
妻が微笑む。
「今日は、この子が一人で仕上げました」
亭主は少し驚いたように女中を見る。
「そうだったのか」
女中は照れながら頭を下げた。
「まだまだ未熟ですが……」
亭主はもう一口飲み、ゆっくり頷いた。
「十分だ。いや、美味い」
その一言で、女中の心はいっぱいになった。
嬉しい。
奥様に認めていただけた。
旦那様にも、美味しいと言っていただけた。
今日は、本当に良い一日だ。
──食事のあと。
妻は食器を片付けながら、小さく笑った。
「今日は一日中、嬉しそうね」
女中は少し恥ずかしそうに笑う。
「……はい」
「そんなに嬉しかった?」
女中は素直に頷いた。
「奥様に安心して任せられると言っていただいて、
旦那様にも、美味しいと仰っていただいて」
言葉を探しながら続ける。
「私……、もっと頑張ろうと思いました」
妻はその返事を聞いて、静かに頷いた。
「それでいいの。
仕事は、人に喜んでもらえるから続けられるものです。
私も昔は、そうやって教わりました。」
女中は目を輝かせる。
「奥様もですか」
「ええ、だから今度は、私があなたへ伝える番」
女中は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
その日の夜。
布団へ入っても、昼間の言葉が耳に残っていた。
――安心して任せられます。
――美味い。
短い言葉。
それだけなのに、不思議と胸が温かい。
もっと上手になりたい。
もっと仕事を覚えたい。
もっと、お二人に喜んでいただきたい。
その願いはまだ、「この家の役に立ちたい」という純粋な思いだった。
だが、その中でほんの少しだけ。
旦那様からもう一度「よくやった」と言っていただけたら……。
そんな小さな願いが、誰にも気づかれないまま、
中の胸に静かに芽を出し始めていた。




