第29話 仕事の先にあるもの
数日後。
女中は朝早くから廊下を磨いていた。
雑巾を固く絞り、板張りを一枚ずつ丁寧に拭いていく。
終わると、廊下には障子から差し込む光が映り込んだ。
「これなら……」
思わず笑みがこぼれる。
その時、帳場から亭主が歩いてきた。
いつものように廊下を通り過ぎる。
足が止まった。
「……綺麗だな。」
女中は顔を上げる。
「はい?」
亭主は床へ目を落としたまま頷く。
「今日はよく磨けている
光っているじゃないか。」
それだけ言うと、そのまま歩いて行ってしまった。
女中はしばらくその場に立ち尽くしていた。
「……。」
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
奥様に褒められることも嬉しい。
けれど。
旦那様の「綺麗だな」の一言は、なぜか一日中消えなかった。
それからというもの。
女中は少しだけ変わった。
廊下を磨く時は、以前より丁寧に。
障子の桟に埃が残っていないか、もう一度確かめる。
庭の飛び石も、通る前に落ち葉を拾う。
茶を淹れる時も、湯の温度を気にするようになった。
誰に言われたわけでもない。
ただ――
「旦那様に、また褒めていただけるだろうか」
そんな考えが、ふと頭をよぎる。
そのたびに、女中は首を振った。
(違う……、仕事だから。きちんとするのは当たり前)
そう言い聞かせながらも、
手は自然ともう一度茶碗を磨いていた。
ある日の夕方。
妻が帳場を見回して言った。
「今日は、ずいぶん隅々まで綺麗ね」
女中は少し照れながら頭を下げる。
「ありがとうございます」
妻は微笑んだ。
「何か良いことでもあった?」
「いえ」
女中は答えながら、自分でも気づく。
(違う。)
(奥様に褒められても嬉しい。)
(でも……。)
その時、帳場へ戻ってきた亭主が床を見渡した。
「なるほど、これは気持ちがいい。」
女中は思わず亭主の方を見る。
亭主は笑っていた。
「毎日ここを歩く者には、すぐ分かる。
よく働いてくれている。」
たったそれだけだった。
それなのに、女中の胸は小さく高鳴る。
(また……褒めていただけた。)
その瞬間、女中は初めて自分の中に芽生えた気持ちへ気づき始める。
仕事が好きだから頑張る。
それだけではない。
旦那様に「よくやった」と言っていただきたい。
その願いが、少しずつ仕事への励みになっていることを。
そして、その変化に気づいているのは、まだ女中自身だけだった。




