表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
家の内側、女中の気配が変わるころ  作者: てきてき@tekiteki


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
28/54

第28話 褒められた日の余韻

夕暮れ。

仕事を終えた女中は、一人で井戸端に座っていた。

昼間に使った手拭いを洗い、水気を絞る。

桶へ落ちる雫が、小さな波紋を広げた。


ふと、昼間のことを思い出す。


――よくやった。


たった、それだけだった。

大げさに褒められたわけではない。

頭を撫でられたわけでもない。


町へ行ったことを認めてもらえた。

それだけだった。

それなのに、その一言が何度も胸の中で繰り返される。


「……よくやった。」


小さく口にしてみる。

自分でも可笑しくなって、少し笑った。


奥様にも何度も褒められてきた。

嬉しかった。

けれど今日の嬉しさは、どこか違っていた。


違うことに気づいた瞬間、女中は慌てて首を振る。


「違う……。」


そう呟き、再び手拭いを洗い始める。

水へ沈めた布を強く揉む。

冷たい水に触れているのに、胸だけが少し熱かった。



その夜。

洗濯物を畳みながら、女中は主人の羽織を手に取った。

いつもと同じように皺を伸ばす。

肩を整え、袖を揃える。

それだけの仕事。

なのに今日は、自然と手が止まる。


「旦那様……。」


昼間、町で会った人も言っていた。

優しい人ですね、と。

奥様も言っていた。

あの人は優しいから、と。

女中は羽織を胸へ抱き寄せそうになり、はっとして手を離した。


「いけない。」


奥様に教えられたばかりではないか。

仕事は仕事。

気を緩めてはいけない。

羽織を静かに畳み直す。


「私は、この家の女中。」


そう言い聞かせる。

それなのに。

心のどこかでは、今日の「よくやった」という声が消えない。



翌朝。

亭主は庭木の枝を鋏で整えていた。

珍しく仕事の前に庭へ出ている。

女中は縁側を拭きながら、その姿を横目に見ていた。


枝を一本切る。

少し離れて全体を見る。

また一本だけ切る。

無駄のない動きだった。


「おい」


突然、声を掛けられる。


「は、はい」


「その枝を取ってくれ」


「あ、はい」


女中は駆け寄り、落ちた枝を拾う。

亭主は鋏を動かしたまま言った。


「昨日、町へ出たせいか、歩き方が少し変わったな。」


女中は驚いた。


「そう……でしょうか」


「ああ」


「前より周りを見るようになった。

良いことだ。」


それだけ言うと、亭主はまた庭木へ向き直る。

女中は拾った枝を抱えたまま立ち尽くしていた。


自分でも気づかなかった変化を、この人は見ていてくれた。

仕事ぶりだけではない。

自分自身の成長まで。

胸の奥が、ふわりと温かくなる。


(また……。)


女中はそっと視線を落とした。

奥様の言葉が蘇る。


「気を緩めていい相手と、そうでない相手の区別はつけなさい。」


分かっている。

分かっているのに。


旦那様の前では、嬉しいことがあるたび、

その言葉を一番に聞いてもらいたいと思ってしまう。


その想いはまだ恋とは呼べない。

けれど、父親への甘えとも少し違うものへ、

静かに形を変え始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ