第27話 一人前への第一歩
女中は急須を温め、静かに茶葉を入れた。
湯を注ぐと、ふわりと茶の香りが立ちのぼる。
この香りを嗅ぐと、不思議と気持ちが落ち着く。
湯呑を盆へ並べ、帳場へ向かった。
「失礼いたします」
亭主と妻の前へ茶を置く。
「ありがとう」
「いえ」
女中は一礼し、そのまま下がろうとした。
「待ちなさい」
妻が穏やかに声を掛ける。
「はい」
女中は再び膝をついた。
妻は亭主へ視線を向ける。
「せっかくですから、あなたからも」
亭主は少し照れたように咳払いをした。
「ああ」
女中は不思議そうな顔をしている。
亭主は静かに言った。
「昨日、初めて一人で町へ出たな」
「はい」
「無事に用を済ませて戻った。
道も覚え、買い物も間違えなかった。」
女中は小さく頷く。
「はい」
亭主は笑みを浮かべた。
「よくやった」
それだけだった。
だが、女中は目を丸くした。
やがて嬉しそうに微笑む。
「ありがとうございます」
その笑顔を見て、亭主も妻も自然と笑みがこぼれた。
「次からは」
亭主は続ける。
「少しずつ、一人で頼む仕事も増えるだろう」
「はい」
「だが、慌てることはない。
分からなければ聞けばいい。
失敗したら、次に直せばいい」
女中は真っ直ぐ亭主を見つめる。
「はい。精一杯、努めます」
妻が優しく付け加える。
「町へ出る機会も、これから少しずつ増やしましょう」
「家の仕事だけでは覚えられないこともありますから。」
女中は少し驚きながらも、嬉しそうに頷いた。
「ありがとうございます、奥様」
その日の午後。
女中は庭の植木へ水を撒いていた。
桶の水を柄杓ですくい、一株ずつ丁寧に潤していく。
そこへ、近所の八百屋の主人が野菜を届けにやって来た。
「こんにちは」
女中も笑顔で返す。
「いつもありがとうございます」
女中は門を開け、野菜籠を受け取る。
「今日は茄子がよく採れましてね」
「奥様にと、少し多めに持ってきました」
「ありがとうございます」
八百屋の主人はにこやかに笑う。
「この頃は、一人で町にも出るようになったそうですな」
女中は少し照れたように笑った。
「昨日が初めてでございました」
「そうでしたか。
しっかりしておられるから、もっと前から行っておられるのかと思いました」
その言葉に、女中は深く頭を下げる。
「まだまだでございます」
そのやり取りを、帳場の障子越しに亭主が聞いていた。
何気ない世間話。
だが、昨日の奥村夫人の話を聞いた今では、その一言一言が胸に残る。
町の人々は、もう「あの家の女中」としてだけでは見ていない。
一人の若い女性として見始めている。
亭主は静かに帳簿を閉じた。
季節が移るように、人もまた変わっていく。
止めることのできないその流れを、改めて思い知らされるのだった。




