第26話 今はこの家で
亭主が家へ戻ると、女中は打ち水を終えたところだった。
濡れた石畳が陽の光を受け、涼しげに輝いている。
「お帰りなさいませ」
女中は柄杓を桶へ戻し、深く頭を下げた。
「ああ」
亭主は頷くと、そのまま家へ入ろうとして足を止めた。
「先日は、町でよく務めたな」
女中は少し驚いたように顔を上げる。
「ありがとうございます」
その一言だけで十分だった。
女中の表情は、朝よりもずっと明るくなっていた。
--昼下がり。
亭主は帳場で帳簿を広げていた。
妻は隣で反物の見本を整理している。
静かな時間が流れていた。
「奥村様は」
妻が手を止めずに尋ねる。
「何と」
亭主は筆を置いた。
「もう一度、きちんと断ってきた」
「そうですか」
「だが」
少し笑う。
「二、三年後に、また来るそうだ」
妻も思わず笑みを漏らした。
「あら。ずいぶんと気に入られましたね」
「ああ、困ったものだ」
そう言いながらも、どこか誇らしげだった。
妻は夫の横顔を見つめる。
「まぁ、嬉しいのでしょう」
「ああ……少しは、な」
亭主は照れたように咳払いをした。
「あの子が褒められるのは、悪い気はせん」
その言葉に、妻は優しく微笑んだ。
「私もです。
親というものは、こんな気持ちなのかもしれませんね。」
亭主は返事をしなかった。
その言葉を否定できなかったからだ。
その頃、女中は洗濯物を取り込んでいた。
庭を渡る風は心地よく、白い手拭いが柔らかく揺れている。
一枚一枚、丁寧に畳む。
そこへ妻がやって来た。
「終わりそう?」
「はい、あと少しでございます。」
妻は並んで手伝い始めた。
「奥様」
「なあに?」
女中は少し迷ってから口を開く。
「今日のお客様は」
妻は手を止めた。
「何かございましたか?」
「いいえ」
女中は首を横に振る。
「私を見て……噂の女中、と仰いました。
私は、何か悪いことをしたのでしょうか?」
妻は少しだけ目を伏せた。
やはり気にしていたのだ。
「違うの」
妻は静かに首を振る。
「あなたが悪いことをしたわけではない」
「では……」
「人はね」
妻は畳み終えた手拭いを重ねながら言った。
「目立つものを、すぐ話題にするの」
「珍しいこと、美しいもの、立派なもの、
それだけで噂になる。」
女中は黙って聞いている。
「だから、噂になること自体は、悪いことではないのよ」
「ただ……」
妻は女中の目を真っすぐ見た。
「噂は、一人歩きすることがある」
「本当のことも」
「違うことも」
「だから、自分で軽々しく家のことを話してはいけないの」
女中は深く頷いた。
「はい、今日も、そのようにいたしました。
家のことは、ほとんどお話ししませんでした」
妻は安心したように笑った。
「それでいいの。
それが、この家を守ることになる」
女中も小さく笑みを返す。
「はい」
その時、帳場の方から亭主の声が聞こえた。
「おい、すまんが、お茶を頼めるか?」
「はい、ただ今」
女中は軽く一礼し、台所へ向かう。
その後ろ姿を見送りながら、妻は静かに思った。
今日の縁談の話は、この子にはまだ伝えない。
余計な不安を抱かせるだけだ。
いつか話す日が来るとしても、それは本人が自分の将来を考えられるようになってからでいい。
今はまだ、この家で笑っていてほしい。
そう願いながら、妻もまた女中の後を追って台所へ向かった。




