第24話 十年の情
奥村夫人が帰ると、妻は玄関先まで見送り、
静かに戸を閉めた。
木戸の閉まる音が、朝の静けさへ溶けていく。
応接間へ戻ると、亭主はまだ座ったまま、
湯呑へほとんど手を付けずにいた。
「冷めてしまいましたね」
妻が湯呑を下げようとすると、亭主は小さく首を振った。
「そのままでいい」
妻は向かいへ座る。
二人とも、しばらく口を開かなかった。
やがて妻が静かに尋ねる。
「本当に、お断りしてよろしかったのですか」
亭主は少し考えてから答えた。
「断ったわけではない。
今は、その時ではないと伝えただけだ」
妻は頷く。
「そうですね」
それでも、その表情には複雑な色が浮かんでいた。
「良いお話では、ありました」
「商いもしっかりしたお家ですし、奥村夫人のお人柄も申し分ありません」
亭主も認めるように頷いた。
「だから困る。」
「相手に不足があれば、迷うこともない」
「だが、あれほど誠意をもって来られると……。」
その言葉を、妻は静かに受け止めた。
「あなた」
「何だ」
「もし、あの子が本当に嫁ぐことになったら……」
亭主は視線を庭へ向ける。
庭では女中が、朝露に濡れた縁側を雑巾で拭いていた。
袖をたくし上げ、一心に手を動かしている。
幼い頃から変わらない、働き者の姿だった。
「まぁ……泣くかもしれんな」
ぽつりと漏れた一言に、妻は思わず笑った。
「あなたらしい」
亭主も照れたように笑う。
「十年だからな……」
「まぁ、十年は長い」
「初めて来た日は、箒より背が少し高いくらいだった……」
「あれが今では、家中の仕事を任せられる」
妻も懐かしそうに目を細める。
「毎晩、泣いていましたものね。」
「ああ。母親に会いたい、とな。」
二人は自然と昔話を始めていた。
初めて包丁を握った日のこと。
味噌汁を焦がしてしまった日のこと。
重い桶を持てず、一緒に井戸まで歩いた日のこと。
どれも昨日のことのように思い出される。
「本当に、大きくなりました」
妻がそう呟いた時だった。
障子の向こうから控えめな声が聞こえた。
「失礼いたします」
噂をすれば……女中だった。
「どうした」
「お客様がお忘れ物でございます」
女中は小さな風呂敷包みを差し出した。
奥村夫人が座布団の脇へ置き忘れていったものだった。
「薬でしょうか」
妻が包みを手に取る。
亭主は静かに立ち上がった。
「まだ遠くへは行っておられまい」
「届けてまいります」
女中はすぐに言った。
「私がお届けいたします」
しかし亭主は、穏やかに首を横へ振る。
「いや、今日は私が行こう。」
女中は少し不思議そうな顔をする。
「かしこまりました」
亭主は風呂敷を手に取ると、草履を履いた。
妻には、その理由が分かっていた。
届け物をするためだけではない。
もう一度、自分の口で伝えておきたいことがあるのだ。
「あの人なら、まだ門を出て間もないでしょう」
妻がそう言うと、亭主は頷き、足早に家を出た。
門を閉める音を聞きながら、妻は庭へ目を向ける。
女中は何事もなかったように、再び雑巾を絞っている。
何も知らず、ただ今日の仕事をこなしているだけだ。
その姿を見つめながら、妻は胸の内で静かに思う。
(あの子の人生を決める話は……、
本人の知らないところだけでは、決めさせない。)
そう強く心に誓い、妻は静かに台所へ戻っていった。




