第23話 その日が来るまで
奥村夫人はしばらく黙っていた。
やがて、小さく微笑む。
「そうお考えでしたか」
亭主は静かに頷く。
「ええ」
「奉公人ではございますが、十年もの間、寝食を共にしてまいりました」
「幼い頃から見ておりますので……」
「情も移ります」
奥村夫人は湯呑を静かに置いた。
「そのお気持ちは、よく分かります。ですが……」
その一言に、再び空気が張り詰める。
「娘のように思って育てた子だからこそ、
幸せになってもらいたい、ともお考えではありませんか」
亭主は答えなかった。
奥村夫人は続ける。
「女は、年頃というものがあります」
「良縁というものも、いつまでも待ってはくれません」
妻も静かに耳を傾けていた。
その言葉はもっともだった。
昭和の時代、女中が良家へ迎えられる話など滅多にない。
むしろ願ってもない話と言われても不思議ではない。
それでも、亭主はゆっくりと首を横へ振った。
「お気持ちはありがたく頂戴いたします。
ですが、今は考えられません。」
奥村夫人は、なおも穏やかな表情を崩さない。
「では、いつ頃でしたら、お考えいただけますか」
亭主は少し困ったように笑った。
「それも分かりません」
「まだ、あの子自身が嫁ぐことなど考えたこともないでしょう」
「本人の気持ちも聞かず、大人だけで決める話ではございません」
奥村夫人は、その言葉に感心したように目を細めた。
「今どき珍しいお考えですね」
「普通でしたら、主人がお決めになることでしょうに」
亭主は静かに答える。
「預かった命です」
「親御さんから託された娘でもあります」
「私一人の都合だけで決めることはできません」
妻は夫の横顔を見つめていた。
その言葉に嘘はない。
だが、それだけでもないことを、妻だけは知っていた。
奥村夫人は小さく息を吐いた。
「……分かりました」
「今日のところは、このお話は引かせていただきます」
亭主は深く頭を下げる。
「申し訳ございません」
「いいえ。」
奥村夫人は柔らかく笑う。
「むしろ安心いたしました」
亭主は顔を上げる。
「安心、ですか。」
「ええ。その子は、大切にされておりますね」
「だからこそ、町であれほど良い評判が立つのでしょう」
妻も穏やかに会釈した。
奥村夫人は立ち上がる。
「ですが」
玄関へ向かいながら、振り返る。
「私は、諦めたわけではございません」
亭主は苦笑する。
「困りましたね」
「ふふ」
奥村夫人は上品に笑った。
「良いご縁というものは、一度断られたくらいでは諦めませんよ」
「もし、お気持ちが変わることがございましたら、
いつでもお声掛けくださいませ」
そう言い残し、静かに玄関を後にした。
門が閉まる音が聞こえると、応接間には重い静けさが残った。
妻がぽつりと呟く。
「本気でしたね」
「ああ」
亭主は短く答えた。
「思っていた以上にな」
庭では女中が干した手拭いを取り込んでいる。
朝日に透ける白い布を、丁寧に畳んでいく。
何も知らない、その横顔はまだ幼さを残していた。
亭主はその姿を見つめ、小さく息を吐く。
「……いつかは。」
その言葉を、妻が静かに受ける。
「ええ。いつかは、この家を出る日が来ます。」
二人とも、その日が必ず来ることは分かっていた。
だが今はまだ、その「いつか」を現実として受け入れるには早すぎた。




